著者
中井 徹
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
no.19, pp.1-22, 2010-06

ロゴセラピー(Logotherapy)とは,「夜と霧」の著者として有名な,オーストリアの精神科医フランクル(Frankl, V.E. 1905-1907)によって創始された心理療法である。ロゴセラピーでは,人間の基本的動機づけを「意味への意志」とし,人間を意味を求める存在と捉える。そしてFranklは安定した生活の中でそれでも感じる,むなしさ,漠然とした不安感,空虚感を「実存的空虚感」として指摘した。ロゴセラピーの目標としてFrankl(1975)は,「人間が自分の自由について自覚すること」「人間が自分の責任に基づいて意味や価値の世界に対して自己決定していくこと」を挙げている。人間には,環境,育ち等の様々な制限がある中でも,態度をとる自由があることを意識し,それを活かして,責任ある意味ある行動を選択していくこと,これが出来るようにロゴセラピーは援助するのである。
著者
松坂 文憲
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
no.19, pp.39-56, 2010-06

不登校状態は,児童生徒個人と環境との相互作用から生じた欲求不和を処理する過程において,欲求不和の表現の一形態として生起するものであり,個人の心身の健康や成長,所属する家族・学級・学校・地域社会等に不利益をもたらす"問題"として捉えられている。現在,不登校人口は平成10年度より12万人以上の数を推移しており(文部科学省,2008),社会問題としての様相を色濃くする中で様々な立場の人々によって問題解決の営みが行われるようになった。とりわけ1980年代後半,フリースクール的立場より,不登校を一つの人生選択,生き方として積極的に肯定する主張がなされてからは,文部科学省による認識転換が起こるなどし(貴戸,2004),「不登校は問題か否か」という,個々の不登校事例から分離した水準の不登校問題へと移行したと考えられる。貴戸(2004)は,そのような不登校の肯定・否定に関わる論争の過熱化は"不登校は問題である"との認識だけを反復し,不登校の当事者に対する否定的評価として還元される問題意識や危機感を再生産する土壌となっている点を指摘している。不登校が本人の問題から,学校制度の問題,家族関係の問題,社会構造の問題・・・と問題の所在を拡大させていく中で,不登校という行為の主体者である本人は,行為主体であるが故にいずれの問題をも自身の中に引き入れ,自己評価を低下させる材料に変えてしまうリスクを抱える存在であると考えられる。そのような児童生徒本人の視点に立つならば,著しい身体的・精神的変化を伴う発達段階において,自己評価の低下や生活リズムの崩れなどにより心身の安定性を欠き,その中で不登校状態の原因となる環境との相互作用関係を客観的に捉えることは困難であるため,その時点における本人の力のみでは事態の解決は望めないのである。
著者
下家 美里 シモイエ ミサト
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
vol.17, pp.87-107, 2008-07

中村三春はファミリーロマンスとして「銀河鉄道の夜」を読むことを批判しているが,それは,多くある宮沢賢治作品の中で「銀河鉄道の夜」は親と子の関係が強く描かれていることも改めて意味する。また,宮沢賢治の作品を考察する時,父や母という単語を出せば,精神分析学的な議論から逃れることはできないだろう。それはおそらく文学を考えるときには切り離せないものなのだろう。作品としてある以上,登場人物にはそれぞれ役目が与えられているし,父も母も,父性や母性の入れ物として置かれることもあろう。そうだとしても,そこに置かれている人物を飛び越えない読み方は常にしていかなければならないのではないだろうか。この論では像としての「父」よりも,子がお父さんと呼ぶ父を見てみたい。
著者
岡崎 まりえ OKAZAKI Marie
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
vol.17, pp.127-147, 2008-07-01

ドイツには,目に見える「壁」と目に見えない「壁」がある。前者は,ドイツがまだ東西に分断されていた頃の国境のことであり,後者は,心の中に存在する「壁」である。17年前,ニュースはベルリンの壁の開放と長年わけ隔てられた同胞との再会に歓喜する人々の姿を,逮日放送した。だが,人々はあれほど喜んでいたことを忘れ,今心の中に,再び東西ドイツを隔てる壁を,以前の何倍もの高さで築いていると感じずにはいられない。 去年,日本に交流事業でやってきたドイツ・ハンブルクの青年たちは,「汚い」,「貧しい」,「(経済的に)遅れている」といった否定的な形容詞で東ドイツのイメージを語り,「親がそう言っていた」とか「学校でそう習った」と答えた。統一して17年も経つとはいえ,東西ドイツ人の間には,親から子に受け継がれるような根強い偏見があって,どうやらそれが「心の壁」の主要因となっているようだと,私は思ったのである。 今回の研究の目的は,この「心の壁」という問題を紹介し,そうした問題がなぜ,どのように生じているのか,そのメカニズムを考えることである。そして単なる制度的な統一ではなく,「心の壁」を解決しての真の統一を実現するために何ができるか,考えてみたいと思う。
著者
相越 麻里
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
no.18, pp.1-18, 2009-06

身体接触とは,知的なコミュニケーションではなく情緒的なコミュニケーションのひとつであるとされる。そして,他者に触れることは最も直接的に自分の存在を相手に伝える,原初的な伝達形態でもある(大坊,1998)。例えば,握手のように人との関係を作る第一歩となったり,スキンシップなど親密な関係を持つ夫婦や親子間のコミュニケーション手段となったりする。つまり,身体接触は,相手との「心的距離」を埋めるきっかけになるものと考えられる。山口(2003)は,身体接触は自身の身体への気づきをもたらし,自己の理解を深めることができると述べている。さらに,身体接触は不安などを低減させ,リラックス感や安心感を生起させる。山口・春木(1998)の研究では,触れられることで「うれしい」,「落ち着いた」,「励まされた感じがした」という感情が表れることを報告しており,身体接触は人に癒しを与えることが示されている。身体接触というのは我々にとっていかに重要な行為であるのかが理解できる。
著者
永田 千晶
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
no.24, pp.41-62, 2015-06

筆者は修士論文において,中世末期から近世初頭のドイツで著された法的文献の一つ『クラークシュピーゲル(Klagspiegel)』1)(以下,Ksp.)に関して,その法制史的,とりわけ刑事実体法史的な意義を検討した。本論文は,修士論文で述べた内容のうちKsp.における故意/過失,未遂にトピックを絞り,構成し直したものである。
著者
佐藤 啓生
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
no.20, pp.21-38, 2011-06

私たちが言葉による謝罪を行なう場合には,「ごめんなさい」「すみません」といった,謝罪の意味を表わす定型表現を使用することが多い。これらの定型表現は,用例を細かく見ていくと,感謝や通行時の挨拶など,明確な謝罪以外の意味を表わす場合もあるが,基本的には謝罪の文脈で使用されることが多い。よって,謝罪の意味を表わすことのある定型表現を,本稿では「謝罪言葉」と呼ぶこととする。「謝罪言葉」に関する先行研究では,定型表現ごとの言葉としての性質の違いや,表現ごとの使い分けが起こる要因となっている文脈上の要素について,様々な観点からのアプローチが行なわれている。しかし,多岐に渡る要素同士の相互関係に触れたものや,個々の表現ごとにどのような要素の傾向が見られるか,つまりは具体的に何によって使い分けられるのか,といったことをまとめた研究は少ない。そこで本稿は,ドラマの脚本から用例を得て,先行研究で取り上げられた,または今回の研究で有効と判断した,謝罪言葉の使い分けに関わる要素を,相互関係も含めて整理したい。またそれにより,「ごめんなさい」「すみません」といった,いくつかの代表的な謝罪言葉について,それぞれどのように使い分けられているのかを提示する。
著者
佐藤 啓生
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
no.20, pp.21-38, 2011-06

私たちが言葉による謝罪を行なう場合には,「ごめんなさい」「すみません」といった,謝罪の意味を表わす定型表現を使用することが多い。これらの定型表現は,用例を細かく見ていくと,感謝や通行時の挨拶など,明確な謝罪以外の意味を表わす場合もあるが,基本的には謝罪の文脈で使用されることが多い。よって,謝罪の意味を表わすことのある定型表現を,本稿では「謝罪言葉」と呼ぶこととする。「謝罪言葉」に関する先行研究では,定型表現ごとの言葉としての性質の違いや,表現ごとの使い分けが起こる要因となっている文脈上の要素について,様々な観点からのアプローチが行なわれている。しかし,多岐に渡る要素同士の相互関係に触れたものや,個々の表現ごとにどのような要素の傾向が見られるか,つまりは具体的に何によって使い分けられるのか,といったことをまとめた研究は少ない。そこで本稿は,ドラマの脚本から用例を得て,先行研究で取り上げられた,または今回の研究で有効と判断した,謝罪言葉の使い分けに関わる要素を,相互関係も含めて整理したい。またそれにより,「ごめんなさい」「すみません」といった,いくつかの代表的な謝罪言葉について,それぞれどのように使い分けられているのかを提示する。
著者
佐藤 英
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-24, 2012-06

従来,ケアに対する考えかたは,「気づかい」「世話」「思いやり」など好意的側面が多く,マイナス要因に目を瞑っているように思われる。昨今の介護殺人,介護難民,老老介護は「ケア」におけるドメスティックな問題に止まらず,大きな社会問題となっている。最近ではマスメディアで「無縁社会」として大きく取り上げられている。筆者は「家庭介護」における介助者の視点の観点からケアを考えることで,ケアを外部化せざるを得ない問題点を着地点とした。また,この危機的状況を乗り越えるために,1つの問題点と6つの打開策を定義した。本論は「ケア」の倫理的側面の再認識,共感と傾聴の現実,社会学及び看護学の「感情労働」,臨床心理学の「共感疲労」の思考形式を学際的に捉え,介護において有効性がある定義を提案することにより,介護の現実問題を打破する倫理的試みをした。そして今日の日本社会の闇に一石を投じることで問題を浮き彫りにすることが本論の狙いである。Although many studies on care have focused on its positive implications such as consideration, tender-heartedness, and sensitivity, they, in my view, failed to examine negative factors involved in the practice of care.These negative aspects, typically seen in nursing murder, nursing refugees, and old couple nursing, are now not only domestic but also big social problems. These current problems have urged me to rethink about the ethical aspect of care.Considering that apathy in self-care is one of the most serious problems, I suggest in this paper that six factors are significant in solving the problem: flexibility of caring, the setting of border for close listening, a space appropriate for emotional expression, buffer distance, meta-recognition sympathy, and short-distance reliance.By so doing, I illustrate the importance of ethical value in nursing. I also show an ethical approach to solving the practical problems by examining the connection between compassion and close-listening, "emotionlabor"addressed in sociology and the science of nursing, and compassion fatigue in clinical psychology.Note) I call kaigo "nursing".