著者
中網 栄美子
出版者
法制史学会
雑誌
法制史研究 (ISSN:04412508)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.55, pp.81-119,8, 2006-03-30 (Released:2011-04-13)

本稿は最初の改正条約といわれる明治二七年に締結された日英通商航海条約に先立ち、日本がポルトガルの領事裁判権を回収した事件を取り上げ、その背景を紹介するとともに、条約改正における意義を問うものである。一九世紀後半に入るとポルトガルにはかつての繁栄はなく、イギリス、フランス、ドイツなどに比べれば、その存在は日本にとって決して重いものではなかった。他方、司法統計に表れた日葡間の民事事件数をみると、無視しうるほど小さい存在ともいいきれなかった。このような中間的位置にあって、ポルトガルが領事裁判を行うにあたって商人領事を用いたことが日葡間の紛議を生むこととなった。日本の度重なる抗議にもかかわらず、明治二五年にポルトガルが総領事館を廃止し、専任領事を本国に帰還させたことにより、日本は勅令六四号発布に踏み切る。これにより、万延元年以来の日葡修好通商条約中の領事裁判に関する条項を無効にせしめ、事後在留ポルトガル人に対する裁判管轄権を日本が有すると宣言したのであった。条約改正交渉途中に起こったこの事件が、列強諸国をいたずらに刺激することのないよう、日本は各国の動向に細心の注意を払った。当時最大勢力を誇っていたイギリスは介入してこず、むしろポルトガルに冷淡な姿勢をとった。しかし、ポルトガルが代理領事に仏公使プランシーを任命してきたことにより、フランスが日葡事件の前面に出てくることになり、その成り行きは緊張をはらんだものとなった。いつ領事裁判復活への揺り戻しがくるとも知れぬ状況にあって、日本は勅令後ほどなくしてポルトガル人に対する裁判権を行使したが、西欧諸国からの介入を極力回避するため、近代的な法と法制度に基づく裁判を行うべく努めた。この事件はまた、相手国に領事裁判権を実効的に行使できない事由があった場合、国内法をもって、領事裁判を回収することができるということを証明した事件でもあった。