著者
中路 佳美
出版者
メディカル・サイエンス・インターナショナル
巻号頁・発行日
pp.71-80, 2021-04-15

【プロローグ:パニック】それは,元気な妊婦さんの緊急帝王切開術だった。硬膜外と脊髄くも膜下麻酔もスムーズに決まり,すぐに児は無事娩出されて,赤ちゃんとの涙のご対面も済んでヨシヨシ…と一息ついたその時,突然モニターのアラームが鳴り響いた。 モニターに目をやると,収縮期血圧が80mmHg台。さっきまで100mmHg以上に保たれていたのに,と思いながらアラーム消音ボタンに手をのばした。「うーん,うー…」と患者が唸りながら,モゾモゾと動き出している。「気持ち悪い…」消え入りそうな声でつぶやいた。そして,再びアラームが鳴った。 収縮期血圧が70mmHgで心拍数は120bpm,SpO2は…測定不能? ああ,これってショックバイタルだ…とにかくエフェドリン入れよう…いやいや帝切ならフェニレフリンのほうがいいんだったっけ? あれ,患者さんがなんか静かになってない? 誰かアラーム切ったのかな…収縮期血圧50mmHg…心拍数は130,140…モニターの数字が,みるみるうちに変わっていく。 その急激な血圧降下に私は息をのみ,固まっていた。…はっと気がつくと,私の横にインチャージの指導医T先生がいる。T先生は輸液をアルブミン製剤に替えてポンピングしながら,「(外回り看護師に)MAP 6単位ね。すぐ上げて」「(術者の)先生,子宮収縮してる?」「しょうがないな,ノルアドレナリン使おうか」「中路先生落ち着いて,大丈夫だから。はい,これつなげて」輸血パックを手渡された私は,呆然としながらそれを点滴台にかけた。 数字が少しずつ回復していく。今までおぼろげにしか聞こえていなかった心拍数のクリック音がはっきりと耳に入ってきた。同時に,外回り看護師がバタバタと手術室内を走り回る足音,術野吸引や電気メスの音が聞こえてきた。「先生,ちょっとこっちにおいで」T先生が,手術台全体を見渡せる位置まで私を引っ張っていった。床に目をやると,血の海が広がっている。こんなに出血していたんだ…。 手術が終わり,覆布を剝ぐと,手術台のシーツまで出血で赤黒く染まっていた。…手術室内の休憩室,湯気の立つコーヒーカップを前に,私はどっぷりと凹んでいた。T先生はコーヒーを口に運びながら,「まだ若手なんだからさ,そんなこともあるよ」と,笑顔で慰めてくれた。 私はほとんど呆然とモニターを見ていた。術野も見たが,その時点で出血はそれほど多くなく,問題ないと判断してしまった。患者さんも見ていたつもりでいたが,その時の意識状態は,顔色は,手の冷たさは,呼吸は…何も思い出せない。私は患者さんの頭もとでパニックになり,視野狭窄を起こしていた。ただモニターの数字しか目に入らず,そして誰かに助けを求めることなく立ち尽くしていたのだ。「私,全然見えてなかったんです。体も固まってしまっていました。T先生,あんなとき麻酔科医って,どんな心構えで,どこに目を向けて,どう考えて動けばいいんでしょうか?」T先生は,天井を見つめながらしばらく考えたのち,口を開いた。「そうだな…じゃあ,達人たちにたずねてみるか?」…雲をつかむような命題に立ち向かう旅の始まりであった。