著者
中辻 小百合
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.17-32, 2011

本稿は、湯浅譲二(Joji Yuasa, 1929-)によるテープ音楽作品《ヴォイセス・カミング Voices Coming》(1969)における創作意図を探ることを目的とするものである。曲は全3曲から構成され、あらかじめ録音された発話言語が主な音響素材として用いられているが、第1曲目〈テレ・フォノ・パシィTele-phono-pathy〉では電話交換手と通話希望者とのコミュニケーションにおける言葉が、続く第2曲目〈インタビュー Interview〉においては発話されたセンテンスの中から抜粋された間投詞と接続詞の部分が、そして第3曲目〈殺された二人の平和戦士を記念して A Memorial for Two Men of Peace, Murdered.〉では浅沼稲次郎(Inejiro Asanuma, 1898-1960)とマーティン・ルーサー・キング(Martin Luther King, 1929-1968)牧師による演説の中の言葉が選択されている。本稿では、まず曲毎に、使用素材の言語的特性について検討を試みた結果、この作品においては、発話の意味内容と直接的に関わる部分、つまり意味論的側面が主たる問題とされているのではなく、第1曲目においては言語コミュニケーションにおける交話的機能としての側面が、第2曲目では言語の美的・芸術的な部分すなわち吉本の論じる自己表出的側面が、第3曲目においては音響的なヴァイオレンスとしての側面が問題とされていることが明らかになった。曲中では、会話の文脈から切り離された素材の新たな再配置によって、個々の素材の個別的・具体的特性がクローズ・アップされる一方、言語自体の持つ記号性や意味性が希薄となるのである。また、同じ語句によるカノン等の対位法的配置によって、詩における押韻の手法に似た効果が生み出されることで、言語の詩的側面が浮かび上がり、ある種の詩的な空間が作り出される。湯浅がこの作品で最終的に目指していたことは、言語の意味内容を音楽によって表そうとする従来の芸術歌曲やオペラの声の在り方を根本から問い直し、発話言語における指示的側面を排除した上で、音響的側面や自己表出的側面、交話的機能としての側面に焦点を当て、それらを詩的形式によってではなく、あくまで作曲家の立場から音楽芸術作品として、音楽的かつ詩的に再構成することにあったと結論付けた。続いて、本作品が《問い Questions》(1971)、《演奏詩・呼びかわし Performing Poem Calling Together》(1973)、《天気予報所見 Observation on Weather Forecasts》(1983)といった言語コミュニケーションに関わる声の作品群の中でどのように位置付けられるのかを探るべく、各作品を比較検証した結果、本作品はこれらの作品群の発端として位置付けられることが明らかになった。今後は、これらの作品毎の特性をより明確にし、流れを整理した上で、湯浅にとって言語コミュニケーション系列の作品とはいかなるものであるのかを検討していくことが求められる。
著者
中辻 小百合 Sayuri Nakatsuji 国立音楽大学音楽研究科
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.17-32, 2011-03-31

本稿は、湯浅譲二(Joji Yuasa, 1929-)によるテープ音楽作品《ヴォイセス・カミング Voices Coming》(1969)における創作意図を探ることを目的とするものである。曲は全3曲から構成され、あらかじめ録音された発話言語が主な音響素材として用いられているが、第1曲目〈テレ・フォノ・パシィTele-phono-pathy〉では電話交換手と通話希望者とのコミュニケーションにおける言葉が、続く第2曲目〈インタビュー Interview〉においては発話されたセンテンスの中から抜粋された間投詞と接続詞の部分が、そして第3曲目〈殺された二人の平和戦士を記念して A Memorial for Two Men of Peace, Murdered.〉では浅沼稲次郎(Inejiro Asanuma, 1898-1960)とマーティン・ルーサー・キング(Martin Luther King, 1929-1968)牧師による演説の中の言葉が選択されている。本稿では、まず曲毎に、使用素材の言語的特性について検討を試みた結果、この作品においては、発話の意味内容と直接的に関わる部分、つまり意味論的側面が主たる問題とされているのではなく、第1曲目においては言語コミュニケーションにおける交話的機能としての側面が、第2曲目では言語の美的・芸術的な部分すなわち吉本の論じる自己表出的側面が、第3曲目においては音響的なヴァイオレンスとしての側面が問題とされていることが明らかになった。曲中では、会話の文脈から切り離された素材の新たな再配置によって、個々の素材の個別的・具体的特性がクローズ・アップされる一方、言語自体の持つ記号性や意味性が希薄となるのである。また、同じ語句によるカノン等の対位法的配置によって、詩における押韻の手法に似た効果が生み出されることで、言語の詩的側面が浮かび上がり、ある種の詩的な空間が作り出される。湯浅がこの作品で最終的に目指していたことは、言語の意味内容を音楽によって表そうとする従来の芸術歌曲やオペラの声の在り方を根本から問い直し、発話言語における指示的側面を排除した上で、音響的側面や自己表出的側面、交話的機能としての側面に焦点を当て、それらを詩的形式によってではなく、あくまで作曲家の立場から音楽芸術作品として、音楽的かつ詩的に再構成することにあったと結論付けた。続いて、本作品が《問い Questions》(1971)、《演奏詩・呼びかわし Performing Poem Calling Together》(1973)、《天気予報所見 Observation on Weather Forecasts》(1983)といった言語コミュニケーションに関わる声の作品群の中でどのように位置付けられるのかを探るべく、各作品を比較検証した結果、本作品はこれらの作品群の発端として位置付けられることが明らかになった。今後は、これらの作品毎の特性をより明確にし、流れを整理した上で、湯浅にとって言語コミュニケーション系列の作品とはいかなるものであるのかを検討していくことが求められる。
著者
中辻 小百合
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.107-122, 2010

本稿は、湯浅譲二 (Joji Yuasa, 1929-) によるバリトンとトランペットのための《天気予報所見 Observations on Weather Forecasts》(1983) において、言語コミュニケーションに関する問題がどのように反映させられているのかについて、作品の分析を通して明らかにすることを目的とする。この作品においては、身体的動作や身振り、感情表出といった非言語的な側面が重要な位置を占めていると考えられる。湯浅は言語コミュニケーションに含まれる非言語的な側面を実際にどのように考えているのだろうか。この問題を考察するにあたって、本稿では非言語的な側面に焦点を当て、作品の分析を試みた。その手順として、曲中における非言語的な側面を、テキストがない箇所における動作と、テキストの提示と同時に指示される身振り・感情表出および楽語とに分けたうえで詳細な分析を試みた。その結果、第一に、テキストがない箇所における動作が構成されるにあたっては、旋律やリズムといった音楽的要素を作品として構成していく方法を応用した音価および時間の段階的縮小と、freezeの動作に代表されるような期待されるものへの裏切りとの2つの特徴的な手法が、第二に、テキストと同時に指示される身振りや感情表出、楽語が配置される際には、前述した身体的動作と同様に、音楽的要素を作曲する際に用いられるシンメトリックな配列や三部形式が利用されていることが確認でき、西洋音楽の作曲における伝統的な方法のもとで構成されていることが明らかになった。一方、テキスト=語られる内容と非言語的な側面との関係の在り方には湯浅の独自性が表れており、分析の結果、情報伝達を目的とする天気予報と身振りや感情表現とは、一部の例外を除き、互いに対比させられたものとして位置づけられていることが明らかになった。この作品では、クロード・シャノン(Claude Elwood Shannon, 1916-2001)らが提唱したような、送り手から受け手へ事実が伝達されるという言語通信システムにおいてはノイズと考えられる側面-すなわち、語られる声の個性や身振りといった音響的側面、言語活動にともなう感情表現としての身振りや動作といった身体的側面に焦点が当てられている。この点から筆者は、この作品をシャノンらの情報理論への音響的および身体的な側面からのアンチテーゼとして考えた。湯浅は、言語コミュニケーションに含まれるこのような非言語的側面に芸術的価値を見出し、詩や演劇といった形態としてではなく、音楽家としての立場から、それらをひとつの音楽作品として組織化したと言える。この《天気予報所見》は、言語コミュニケーションに含まれる非言語的側面を自らの手によって再構成し、音楽化したいという湯浅の創作意欲のあらわれであると結論付けた。