著者
久保 陽一
出版者
駒澤大学
雑誌
駒沢大学文化 (ISSN:02896613)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.21-40, 1991-03

カント哲学、とくにその理論哲学の基礎をなす超越論哲学については、周知のように、科学の基礎づけという新カント派の解釈に対して、ヴント、ハイデガー等は形而上学ないし存在論として解すべきことを説いた。だがその際科学の基礎づけないし認識論と存在論とが対立するものと見られるべきかどうかが問われるだけでなく、そもそもカントがいかなる意味で形而上学ないし存在論を説いたかも、繰り返し検討されなければならないと思われる。その場合考察の一つの手掛かりとなるのは、カントの形而上学が従来の形而上学、とりわけヴォルフ派の形而上学に対しいかなる関係にあったのか-批判か継承か修正かを明らかにすることだと思われる。この点について最近フルダは興味深い解釈を示している。フルダによると、カントは理論的認識の面でのみ従来の形而上学の要求を制限しはしたが、多くの点で従来の形而上学とりわけヴォルフ派のそれを-例えば、一般形而上学(存在論)と特殊形而上学(宇宙論、心理学、自然神学)という形而上学諸学科の分類、一般形而上学は自然学の「後」にあるのでなく「先」にあり、非感性的な認識根拠に基づいていること、総じて形而上学は「思惟から独立なものの学」だという信念等を-継承していた。更に、形而上学の範囲を実践的領域にまで拡張し、それ故カントは形而上学への要求にかんして決して「控えめ」ではなかった。だがその際一般形而上学はカントにおいてはもはや存在論ではなく、超越論哲学になったとも言う。しかしこの超越論哲学のみならず、特殊形而上学(自然の形而上学、道徳の形而上学)も結局のところ、フルダの与するヘーゲルの形而上学=論理学の見地からすれば、「本来の形而上学」ではないと批判される。このようなフルダのカント形而上学解釈のうち、(1)カントの形而上学がヴォルフ派のそれを継承しているという点は認められるものの、(2)超越論哲学は存在論ではないという見方には、必ずしも全面的に同調することはできない。むしろ超越論哲学はやはり一種の存在論であると思われる。(3)またカントの特殊形而上学が持っている理念の形而上学としての積極的意味が見失われているように思われる。(4)更に、総じてカントの形而上学は「本来の形而上学」でない、という批判に問題があるだけでなく、それによりカントとヘーゲルの関係も正しく捉えられなくなる恐れがある。以下ではこれらの点についてカントの形而上学の意味するところを考えることにしたい。