1 0 0 0 脚下照顧

著者
井出 雅弘
出版者
一般社団法人日本心身医学会
雑誌
心身医学 (ISSN:03850307)
巻号頁・発行日
vol.45, no.5, 2005-05-01

表題にからめて,不安について思うところを述べたいと思う.安永によれば,不安を恐怖という感情に対比させて論じている.切迫する現実的有危険や困難が,明確な形で直接に認知された場合,われわれは恐怖を感じるものである.その際,その対象に対抗意識をもって注意が集中し,緊張し,衝動的逃避,あるいは反撃の構えをとる.それに対して危険感が,明らかな形をとらずに襲いかかるとき,われわれは不安を感じる.それは,よりび漫性に精神に侵し込む「根本的心情性一であり,無力感や狼狽の状態に陥る.それはあまり外を志向せず,身体感覚とともに感じられる陸面的な混乱状態の感覚である.つまり,不安は莢象がはっきりしない内的な葛藤を含む感情で麦り,差し迫った危険に対して覚醒度を上げて,危険回避の対処行動をとらせるための信号と解釈てきる.誰しも不安を感じるものであるが,病的な不安になると自分では制御することが難しく,比較的長く持続したり,再現を繰り返したり,再現するのではないかという不安感を伴う.不安に関して印象に残った患者の言葉をここに紹介しよう.「いろいろなことに不安になるのは,もし不幸なことが生じたときに不安という心の準備をしていたので,そのときは不安が強くならないのです」と.これは不安について考えさせられる言葉であった.折りしもその後患者は乳癌に罹患したが,冷静に対応されていたのである.心の対処様式の一つであろう.対比的だが,ここで次のような有名な禅問答を思い出す.雪の降りしきる極寒の日,壁に向かい続ける達磨に一人の男が訪ねてきた.名を神光.四書五経の万巻を読み尽くしていた人物である.彼は膝まで積もった雪の中で達磨に問うた.「心が不安でたまらないのです.先生,この苦悩を取り去ってください」.達磨は答える.「その不安でたまらない心というものを,ここに出してみろ.安心せしめてやる」.神光は,「…出そうとしても出ません.心にはかたちがないのです」.達磨はすかさず,「それがわかれば安心したはずだ.かたちのないものに悩みがあるはずもない」と.神光は,その後達磨の弟子となり,第二代の祖となった.ここで「不安に不安となる」という言葉が浮上してくる.これは守ろうとする自己と,煩悩,執着,こだわりなどを捨てようという自己との葛藤に関連するものかもしれない.守りに入ると維持するのが苦しい.かといって捨ててしまうには,相当な心的エネルギーを要する.このように,われわれの心は絶えず揺れ動いている.心は身体と違ってひとつのところに置いておけないものであるから,それをありのまま認めるしかないのである.そこで「脚下照顧」という四字禅語が登場する.意訳すればあまり外のことばかりに気をとらわれず,むやみに動かず,自分の足もと,心の中を観ておきなさいということであろう.ごく当たり前の日常生活の中に自分の心を根付かせよということのようだ.具体的にいえば「飯を食うときは飯を食うことに徹し,糞をするときは糞をすることに徹しよ」ということであろう.そこには不安が介在する間がないのである.

1 0 0 0 脚下照顧

著者
井出 雅弘
出版者
一般社団法人 日本心身医学会
雑誌
心身医学 (ISSN:03850307)
巻号頁・発行日
vol.45, no.5, 2005
参考文献数
1

表題にからめて,不安について思うところを述べたいと思う.安永によれば,不安を恐怖という感情に対比させて論じている.切迫する現実的有危険や困難が,明確な形で直接に認知された場合,われわれは恐怖を感じるものである.その際,その対象に対抗意識をもって注意が集中し,緊張し,衝動的逃避,あるいは反撃の構えをとる.それに対して危険感が,明らかな形をとらずに襲いかかるとき,われわれは不安を感じる.それは,よりび漫性に精神に侵し込む「根本的心情性一であり,無力感や狼狽の状態に陥る.それはあまり外を志向せず,身体感覚とともに感じられる陸面的な混乱状態の感覚である.つまり,不安は莢象がはっきりしない内的な葛藤を含む感情で麦り,差し迫った危険に対して覚醒度を上げて,危険回避の対処行動をとらせるための信号と解釈てきる.誰しも不安を感じるものであるが,病的な不安になると自分では制御することが難しく,比較的長く持続したり,再現を繰り返したり,再現するのではないかという不安感を伴う.不安に関して印象に残った患者の言葉をここに紹介しよう.「いろいろなことに不安になるのは,もし不幸なことが生じたときに不安という心の準備をしていたので,そのときは不安が強くならないのです」と.これは不安について考えさせられる言葉であった.折りしもその後患者は乳癌に罹患したが,冷静に対応されていたのである.心の対処様式の一つであろう.対比的だが,ここで次のような有名な禅問答を思い出す.雪の降りしきる極寒の日,壁に向かい続ける達磨に一人の男が訪ねてきた.名を神光.四書五経の万巻を読み尽くしていた人物である.彼は膝まで積もった雪の中で達磨に問うた.「心が不安でたまらないのです.先生,この苦悩を取り去ってください」.達磨は答える.「その不安でたまらない心というものを,ここに出してみろ.安心せしめてやる」.神光は,「…出そうとしても出ません.心にはかたちがないのです」.達磨はすかさず,「それがわかれば安心したはずだ.かたちのないものに悩みがあるはずもない」と.神光は,その後達磨の弟子となり,第二代の祖となった.ここで「不安に不安となる」という言葉が浮上してくる.これは守ろうとする自己と,煩悩,執着,こだわりなどを捨てようという自己との葛藤に関連するものかもしれない.守りに入ると維持するのが苦しい.かといって捨ててしまうには,相当な心的エネルギーを要する.このように,われわれの心は絶えず揺れ動いている.心は身体と違ってひとつのところに置いておけないものであるから,それをありのまま認めるしかないのである.そこで「脚下照顧」という四字禅語が登場する.意訳すればあまり外のことばかりに気をとらわれず,むやみに動かず,自分の足もと,心の中を観ておきなさいということであろう.ごく当たり前の日常生活の中に自分の心を根付かせよということのようだ.具体的にいえば「飯を食うときは飯を食うことに徹し,糞をするときは糞をすることに徹しよ」ということであろう.そこには不安が介在する間がないのである.
著者
大林 正博 井出 雅弘 久保木 富房
出版者
一般社団法人日本心身医学会
雑誌
心身医学 (ISSN:03850307)
巻号頁・発行日
vol.37, no.8, pp.591-598, 1997-12-01
被引用文献数
6

アレキシシミアを伴う書痙患者に対して, 5年余り(200回余り)のフォーカシングによる面接を行った。面接第30回くらいまでの話題の大半は, 右手の違和感など症状に関するものであった。しかし, 「日常の問題が出ないこと」の指摘などの直面化をしたり, 面接140回頃よりコーネルによる方法を取り入れたこともあり, しだいにアレキシシミアとしての印象は薄らぎ, さまざまな「気がかり」なことに触れたり, 神経症的な葛藤や不安を表現するようになった。一方, 書痙症状は徐々に軽快し, 去勢不安とも取れる事柄を語るようになった第170回頃よりほとんど完全に消失した。フォーカシングは心身症に対しても試みる価値がある治療技法であると思われた。