著者
信岡 巽
出版者
福山大学
雑誌
福山大学人間文化学部紀要
巻号頁・発行日
vol.4, pp.159-202, 2004-03-01

1914年7月一次大戦が勃発すると、T. E. Hulme はためらうことなく直ちに陸軍名誉砲兵中隊に一兵卒として志願し入隊した。翌年4月ベルギーのフランダースで戦闘中、負傷して本国に送還され入院した。しかし、退院後、再度志願し、今度は海兵隊の士官として1917年8月、ベルギーのオースト・ダンケルク・ベインズに出動。それからまもなくの9月28日ドイツ軍の砲撃にあって不帰の客となった。34歳の若さであった。知識人の多くが戦争に懐疑的であった中で、彼は、なぜ敢然と銃をとり、砲弾に身を曝したのであろうか。彼は入院除隊中 New Age 誌や Cambridge Magazine 誌で戦争擁護の論陣を張り、特に後者の誌上で当時の反戦平和論者 Russell (Bertrand) と激しく論戦した。彼はその中で Russell の平和論が、個人の生やパーソナリティに価値を置くローマン主義的な進歩思想に基づいていると批判し、ヨーロッパのヘゲモニーを目指すドイツの軍国主義に対し伝統的な文化や思想を防衛するために、「英雄的価値」に拠る主戦論を展開した。しかし、彼がいう「英雄的価値」とはなんであろうか。Hulme は比較的早い時期、フランスのサンジカリスト、ソレル (G. Sorel) やアクシオン・フランセーズの思想に触れ強い影響を受けた。また、熱烈な原罪説の信仰者でヒューマニズムを激しく攻撃した。彼の戦闘参加と彼のこうした思想とは、どのように結びつくのであろうか。このノートは、比較的おろそかにされている Hulme の政治思想の解明に、これらの問題に照準を合わせながら、一つのアプローチを試みたものである。