著者
加藤 基惠
出版者
麻布大学
巻号頁・発行日
1986-06-04

生物の生活環境中には遺伝子レベルでの障害あるいは染色体異常を誘発させる化学物質が多数存在している。 それらの中,特に遺伝的障害を発現する化学変異原物質を検出するために数多くの検出系が考案されている。マウスを用いての実験においては生殖細胞の染色体異常の検出系として優性致死試験や遺伝性転座試験が多く用いられている。しかし,これらの検出系は実験の規模が大きく簡便とはいえない。一般に個体の発生は生殖細胞が合体した1細胞期胚から始まると言える。従って,両親のうちのいずれかの生殖細胞において誘発された障害,あるいはこの障害をもつものを親とする次世代における染色体レベルの遺伝的障害は,さかのぼって1細胞期胚における染色体異常の有無を検索することにより,事前に発見できる可能性があると考えられる。さいわいマウスの1細胞期胚の染色体は特異的で,精子由来と卵子由来の染色体が識別できるので雌雄いずれからの異常かが判別可能である。しかし,1細胞期胚の染色体異常に関する報告は少なくさらに1細胞期胚の染色体異常と他の遺伝的障害との関連性についても明らかにされていない。このことは1細胞期胚の染色体標本作製技術にも問題があると考えられる。 今回の研究は,まず第1にマウス1細胞期胚の染色体標本作製法の改良・開発,第2に,この改良・開発した方法を利用することによって,1細胞期胚の染色体分析結果が環境変異原により発現される優性致死作用や次世代の転座ヘテロ個体の誘発頻度を事前評価できる簡便な検出系になりうるかどうかを検討することを目的とした。そのため既知の化学変異原物質を雄マウスに投与することにより,受精前の配偶子あるいは 受精後の1細胞期胚及び障害を持つ雄による次世代のF_1個体に亘っての障害を明らかにするため種々の実験を実施した。 実験材料と方法 9週齢の雄マウス(Slc-BDF_1)を用い,体重1kgあたり,以下の各変異原物質のそれぞれの量を単独で1回,腹腔内に投与した。 Methyl methanesulfonate (MMS, 100mg) Cyclophosphamide (CPA, 240mg) Trimethylphosphate (TMP, 300mg) Nitrogen mustard-N-oxide hydrochloride (HN_2-O, 100mg) iso-propyl methanesulfonate (i-PMS, 200mg) Procarbazine hydrochroride (PC, 800mg) Mitomycin C (MC, 5mg) Fosfestrol (DSDP, 300mg) なお,X線照射(500 rad)雄マウスについても比較のための実験を行った。 これらの処置をされた雄マウスを経時的に成熟正常雌マウスと交配させ,著者の考案した一連の術式を用いて雌マウスより1細胞期胚を採取し,精子由来の染色体を検査した。 他方,交配後1細胞期胚を採取せず,妊娠を持続せしめた雌マウスについても経時的に着床や胚死の状況を追求すると共に分娩にまで至ったものについては新生仔中のF_1雄個体について遺伝的障害因子保有の有無を知るため,性成熟後に正常成熟雌マウスと交配させ,着床や胚死等の有無を含め,受胎状況を観察し,変異原物質を処置された初代雄の精子による次世代雄への遺伝的障害の有無についても追求した。 また,同様処置した雄マウスの精巣の組織学的所見および精子の形態異常についても検討した。 この他,雄生殖細胞のDNAレベルの障害とその修復機能を観察するため,アイソトープ(thymidine-methyl-^3H)を精巣に投与後,経時的に精子を回収し,オートラジオグラフを作製して不定期DNA合成の発現の有無についても適宜検査した。 また,精子による遺伝的障害以外に精液を介して薬物の雌体内への機械的な搬入による障害等も考慮し,精液中の薬物検出も一部実施した。 実験結果 本研究で改良・開発したマウス1細胞期胚の染色体標本作製法は従来の方法と異なり,標本作製が簡便で,しかも低数性の染色体の発現頻度が低く染色体分析の可能な標本作製についての成功率が高かった。この方法を用いて,精子細胞および精子をMMS,CPA,TMP,HN_2-O,i-PMSおよびX線で処置し,その精子による1細胞期胚の染色体分析を行った。その結果,精子由来の染色体において主に染色体型の異常が観察された。しかし,PCおよびMCで精子細胞および精子を処置した場合は,主に染色分体型の異常であった。一方,精原細胞および精母細胞をPC,MC,i-PMSおよびX線で処置した場合は不受精卵が高頻度に観察された。 変異原物質を雄生殖細胞に処置した場合の各雄生殖細胞に対する優性致死誘発率は,化学変異原物質の種類により異なり,精原細胞では高いが,精母細胞,精子細胞および精子の順に優性致死率が減少するタイプ(PC,MCおよびX線),精子細胞ないし精子に対しては優性致死誘発作用が高いタイプ(MMS,CPA,TMPおよびHN_2-O),全ての生殖細胞に対して優性致死誘発作用が高いタイプ(i-PMS)に分類された。また精原細胞および精母細胞の障害に起因する優性致死現象は着床前の胚の損失によるものであったが,精子細胞および精子に対する化学物質の影響による優性致死現象は主に着床前の胚の損失と着床後の胚死によるものであった。これらの実験結果はこれまでの報告とほぼ一致した。 精子細胞や精子に対してMMS, i-PMSおよびX線を処置した雄を用いて交配させ,排卵後72時間目の胚を回収して分析した結果,卵割遅延および卵割停止が観察され,それらの障害の程度は変異原物質の種類により異なった。 精子をHN_2-Oで処置した後に交配受精させ,出産させた次世代F_1雄の妊孕性試験の結果においては,着床後の胚の死亡を主に引き起こす半不妊および着床胚が全く観察されない不妊のF_1雄個体が高頻度に発現した。これらのF_1雄の半不妊および不妊個体の精巣組織学的検索では,不妊個体において精母細胞での精子形成阻害が観察され,一方,半不妊個体では正常な精子形成が認められた。また,これらの半不妊個体の精母細胞の染色体分析では,非相同染色体間の相互転座を示す鎖状および環状の4価染色体が観察され,相互転座ヘテロ個体であることが確認された。 他方,MMS,MCおよびi-PMSを投与された処置当代における雄について精巣の精子形成および精子の形態に対する影響について組織学的に検索した結果,精母細胞,精子細胞および精子の顕著な細胞死および精子形成阻害は観察されなかった。しかし,MCおよびi-PMSを投与した場合は,精原細胞のDNA合成阻害による一時的あるいは永久的な分裂阻害が観察され,これらの精巣は萎縮が観察された。MCを投与した場合の精子の形態異常は主に精母細胞および精原細胞処置のものに観察された。一方,精子変態を過ぎた段階での精子をMC,MMS,i-PMSおよびX線で処置した場合,精子の形態異常は観察されなかった。 生殖細胞のDNA傷害の修復を示唆する不定期DNA合成はMMS,TMPおよびPCを精母細胞および精子細胞に対して処置した場合誘発されたが,MC処置の場合は誘発されなかった。一方,精子に対してMMSおよびMCを処置した場合は誘発されなかった。 考察 以上の実験結果から,精原細胞および精母細胞処置による優性致死試験で観察された着床前の卵の損失は精原細胞の分裂阻害あるいは障害をうけた大部分の精母細胞が発生して精子変態過程において精子形態異常を引き起こし,受精能に支障を生じ,その結果,不受精卵が生じたものと推察された。一方,精子細胞や精子処置により観察された着床前後の胚の損失は,1細胞期胚の精子由来の染色体異常に起因し,染色体異常を有した1細胞期胚が発生し卵割遅延あるいは卵割停止を生じた結果胚死亡を引き起こしたものと推察された。 不定期DNA合成がDNA障害の結果発現したDNAの修復現象と仮に考えると,精子では不定期DNA合成が発現されず,修復能が欠損しているものと推察された。また,精子形成過程に対する優性致死の発現時期と不定期DNA合成の発現時期との相関性が認められないことより,この2つの現象は発現機構を異にするものと思考された。 化学変異原物質を精子細胞および精子に処置し,それを用いて受精した1細胞期胚の染色体分析で主に染色体型の異常を誘発する化学変異原物質は次代のF_1雄に高頻度に半不妊および不任を示す転座ヘテロ個体を誘発し,一方,染色分体型の異常を発現する化学変異原物質の処置では転座ヘテロ個体の誘発頻度が低い。このように,1細胞期胚で観察された染色体異常の種類および発現頻度とF_1を対象とした場合の転座ヘテロ個体の発現頻度とは相関関係が認められた。 体細胞の染色体に対する放射線と化学物質の作用の違いは,放射線は細胞周期と無関係に染色体異常を発現するものに対し,化学変異原物質はどの細胞周期に処置しても染色体異常を発現するには処置した細胞がDNA合成期を経過する必要があり,そこに発現される染色体異常は主に染色分体型であると言われてきた。しかし,本研究においては化学変異原物質を細胞周期のG_1期にあたる精子細胞および精子に処置し,受精後1回目のDNA合成期を経過した1細胞期胚の染色体分析を行った結果,体細胞の場合とはかなり異なり,主に染色体型の異常が発現された。従って,変異原物質による次世代への遺伝的障害の事前評価には生殖細胞を用いた検出系の必要性を指摘したい。 なお,化学物質を雄個体に処置した場合,その化学物質が射出精液を介して雌個体に持ち込まれ,母体に作用し,二次的に卵の発生あるいは着床に影響を及ぼす場合がありうる結果がえられた。そのため化学物質による優性致死試験の結果の評価においては,遺伝的影響以外に化学物質の射出精液を介した雌マウスへの持ち込みによる影響をも併せて考慮する必要性が指摘される。 以上の実験結果より以下の結論が得られた。 1) 本研究において改良・開発されたマウス1細胞期胚の染色体標本作製法は,簡便であるとともに,信頼度の高い方法である。 2) 1細一期胚の染色体分析は,化学物質に暴露された配偶子の受精能に対する影響も判定できる。 3) 優性致死試験で胎仔の認められない場合の原因について,これが不受精によるのか,染色体異常によるのかの判定には,1細胞期胚の染色体の分析が有効である。 4) 顕著なDNA障害を有した精子でも受精は可能であり,この場合,1細胞期胚において染色体異常が観察される。 5) 体細胞の場合と異なり,雄生殖細胞を化学物質で処置した場合は,1細胞期胚の染色体分析で,おもに染色体型の異常が発現され異常の発見が容易である。 6) 染色体異常を有した大部分の1細胞期胚は,初期胚および胎仔において発生遅延や発生停止を引き起こし,致死経過をとる。 7) 化学変異原物質で雄生殖細胞を処置した後,1細胞期胚の染色体分析で主に染色体型の異常を発現させる化学変異原物質は,次世代のF_1において転座ヘテロ個体を高頻度に誘発する。 従って1細胞期胚の染色体分析は優性致死および次世代の転座ヘテロ個体の発現頻度を事前評価でき,環境変異原物質を対象とした簡便な遺伝毒性の検出系として充分利用できるものと考えられる。