著者
原澤 純子
出版者
医学書院
雑誌
看護研究 (ISSN:00228370)
巻号頁・発行日
vol.47, no.7, pp.670-678, 2014-12-15

I.はじめに 多くの看護場面では,「触れる」「握る」「さする」などといった行為が日常的に行なわれている。近年臨床において,タッチやマッサージなど,患者に触れることでリラクゼーションや心身の安寧を図る技術を取り入れる機会も増えてきた。しかし,手を使ったケアはこのような特別なタッチやマッサージに限らない。保清や体位変換などの日常生活援助や,注射や創傷処置などの診療の補助のような看護ケアの多くも,手によって生み出されている。ウィルソン(1998/藤野,古賀訳,2005)は,「われわれの生活は,じつに巧妙に静かに手が関係する日常的な経験にあふれすぎているので,現実にどれほど手に頼っているかをめったに考えることはない」と述べている。 手は日常の看護ケアのあらゆる場面ではたらいているが,巧妙に静かに,ケアに密着してはたらく手にかかわる経験について,常にはっきりと意識化しているわけではない。しかし,ふと触れた手によって,患者がなんとなく安心した様子になったり,苦痛が緩和したように感じたりということを経験的に感じることがある。このような手のはたらきは,状況に応じて直観的に差し出されるため,その効果のエビデンスが明らかにされているわけではない。 タッチやマッサージ,触れることに関する先行文献を概観してみると,これらが心身に及ぼす影響について,生理的・心理的指標を用いて検証を試みているものが多い(森下,池田,長尾,2000;松下,森下,2003;本江,高橋,杉山,田中,2012)。また,質的研究では,タッチのタイプや意義を明確化することを試みた研究(鳥谷,矢野,菊地,小島,菅原,2002;大沼,2011)がある。川西(2005)は,日常生活援助場面での「触れる」ことに焦点を当て,参加観察と看護師の面接により,触れることの意義をカテゴリ化している。患者の身体にはたらきかける際の両義性,相互性に着目しているところが意義深いが,依然意図して触れる部分についての言及にとどまっている。 一方,日常の看護場面に密着した手のはたらきに関する研究はまだ少ない。川原ら(2009)は,個別の状況において自然に行なわれている看護師の触れるケアを身体論的に分析し,触れるという行為はそれぞれの状況において即応的に,直観的に行なわれ,看護師と受け手の両者にとって深い感覚的・情緒的交流をもたらしていることを明らかにした。しかしながら,臨床における優先度は低い現状も指摘されており,今後も看護師や患者の経験を掘り起こし,共有していく必要性について述べられている。 現象学者である滝浦(1977)は,「足は外界に対するわれわれの立脚点として,まだわれわれ自身に属しているのに対して,手は,われわれの外界に対する実践的接点として,両者に共属している」と述べている。この考えに基づくと,看護の技術的側面だけを抽出して客観的に分析する方法では,自分と相手(外界)との間の実践的接点として手がはたらく場面を捉えきれない可能性がある。また,自分と外界の両者に共属している手のはたらきを改めて見つめ直そうとしても,客観的に捉えることは難しく,自らの経験や感情を抜きにして語ることはできない。さらに,状況に応じて差し出される手,看護師自身も意図しているかいないかのところではたらく手について,実験的環境を整えるのは困難である可能性も考えられる。これらから,看護師が自らの実践を振り返り,語り直すという過程の中で,その経験や触れる意味を捉え直していくことで,看護場面においてはたらく手に関する経験が浮かび上がってくるのではないかと考えた。 そこで,日常の看護場面ではたらく手について,看護師の経験の語りを通して明らかにすることを目的として本研究を行なった。そのことにより,看護ケアにおいてはたらく手について改めて問い直すきっかけとなるのではないかと考える。