著者
大森 淳郎
出版者
NHK放送文化研究所
雑誌
放送研究と調査 (ISSN:02880008)
巻号頁・発行日
vol.71, no.3, pp.58-89, 2021 (Released:2021-04-20)

サイパン島陥落、フィリピン戦、特攻作戦、硫黄島玉砕、沖縄地上戦……。国民の間に厭戦気分が増大しかねない事態の中で、ラジオは敵愾心の振起、戦意の維持という使命を担っていた。日本放送協会はその使命にどう対応したのだろうか。 本稿では、電気通信を学ぶ高等学校生だった高橋映一が手作りの装置で録音した音源を手がかりに、太平洋戦争後期から末期にかけてのラジオ放送に焦点を当てる。 そして、太平洋戦争の敗北が決したとき、ラジオはその原因と責任の所在をどう国民に伝えようとしたのか、新資料から考察する。
著者
大森 淳郎
出版者
NHK放送文化研究所
雑誌
放送研究と調査 (ISSN:02880008)
巻号頁・発行日
vol.71, no.11, pp.2-26, 2021 (Released:2021-11-20)

敗戦を境にラジオはどう変わったのだろうか。そして何が変わらなかったのだろうか。 この問いに対しては、これまでGHQの情報・教育政策や放送法成立過程など、主に法制度史の側面から研究が重ねられてきた。本稿では、それらの先行研究を踏まえつつ、放送現場に軸足を置いて、より内在的な答えを探してゆく。 前編では、敗戦直後の混乱、虚脱状態を脱したNHKが、いわば「アメリカのラジオ」として形づくられてゆく過程を見てゆく。
著者
大森 淳郎
出版者
NHK放送文化研究所
雑誌
放送研究と調査 (ISSN:02880008)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.72-95, 2019 (Released:2019-03-20)

前編では、多田不二と西本三十二の自己形成と日本放送協会入局までを見てきた。 欧米列強の後を追うように帝国主義の道をつき進む日本を批判する詩を書いていた多田は、入局後も講演放送の制作に奔走しながら活発に詩作を続けていた。詩人であることと、協会職員であることの間に矛盾はなかった。 アメリカで進歩主義教育を学んだ西本は学究の道を歩み、ラジオ講演で国際平和について語ることもあった。逓信局によってラジオ講演が放送中止に追い込まれるという体験もしたが、関西支部(BK)の真摯な対応もあり、放送局への信頼を失うことはなかった。そして新しい教育を放送によって広めてゆきたいと考えた西本は、日本放送協会に入局し学校放送を立ち上げる。 多田と西本は、講演放送の現場で、また学校放送の現場で自己実現を果たしてゆくはずだった。だが、時代は大きく転換する。満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と続く戦争の時代、協会は軍・政府の宣伝機関として国民を戦争に動員することがその使命となっていった。その中で、多田と西本は組織人としてどう生きたのか、後編では2人の苦悩や葛藤を見据えながら戦時教養放送の実相を描く。
著者
大森 淳郎
出版者
NHK放送文化研究所
雑誌
放送研究と調査 (ISSN:02880008)
巻号頁・発行日
vol.70, no.8, pp.2-17, 2020 (Released:2021-04-16)

本稿では、戦時ラジオ放送におけるアナウンス理論に焦点を当てる。先行研究に共通する大きな見取り図は、主観を排して淡々とニュースを読む、善きものとしての「淡々調」が、太平洋戦争勃発とともに生まれた、主観を前面に押し出して読む、悪しきものとしての「雄叫び調」に取って代わられたというものである。しかし今回、これまでの定説とは異なる次の知見を得た。 ➀「淡々調」も、日中戦争勃発後には国民を戦争に誘導するために最適なアナウンス理論として位置づけられていたのであり、その点においては「雄叫び調」と同じであること。 ②これまで「雄叫び調」は、太平洋戦争開戦を告げる臨時ニュースから自然発生的に始まったとされてきたが、それはつくられた伝説であり、開戦前から理論構築されていたこと。 本稿では、当時のアナウンサーたちの内面に分け入りながら上記知見を明らかにしてゆく。内容ではなく話し方によって国民を戦争に動員する。それはどんな挑戦だったのだろうか。
著者
大森 淳郎
出版者
NHK放送文化研究所
雑誌
放送研究と調査 (ISSN:02880008)
巻号頁・発行日
vol.69, no.11, pp.2-25, 2019

『国民歌謡』『詩の朗読』『物語』等々、1920~30年代の大阪中央放送局を舞台に奥屋熊郎が開拓した番組は枚挙に暇がない。野球中継やラジオ体操を初めて実現させたのも奥屋だった。この稀代の放送人・奥屋熊郎の哲学の核心は、放送の「指導性」である。当時、ラジオで最も人気が高かったのは浪花節だったが、奥屋の考えでは大衆は浪花節が好きだから浪花節の放送を聴くのではない。ラジオが放送するから浪花節を好きになるのである。「ラジオがラジオ大衆を作り出す」のである。放送によって大衆文化の向上を実現しようとした奥屋は、「(放送は)時代文化の特質を容易に変質させる力でさえある」とまで言うのだ。 だが、奥屋の「指導性」の強調の仕方に私たちはある既視感を覚える。本シリーズ第3回で焦点を当てた逓信省の田村謙治郎は満州事変から日中戦争へと向かってゆく時代の中で「ラヂオは最早、世情の流れに引き摺られてプログラムを編成する時代ではない」のであり「民衆をして追随せしむる」ものでなければならないと主張していた。 大衆文化の向上を目指す奥屋の「指導性」と、国民を戦争協力に導こうとする田村の「指導性」は、やがて近接し重なりあってゆくことになる。 奥屋が全力を傾注した慰安放送(今で言う娯楽番組)は、戦争の時代、どう変質していったのか。前編では、奥屋熊郎の出発から見てゆく。