著者
小林 逸雄
出版者
仁愛大学
雑誌
仁愛大学研究紀要 (ISSN:13477765)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.99-118, 2007

戦後のメディアは新聞と放送が牽引してきたと言って良い.中でも放送メディアの進展には目を見張るものがある.そこには日本における経済社会の発展が背景としてあり,国民の暮らしに直結する放送との相互関係があったのである.スイッチをオンするだけでニュースや話題など生活情報がふんだんに送られてくる.早くて手軽,しかも便利で有益であった.そして60年.放送局と視聴者は信頼関係を築いてきた.しかし近年,受け手であった視聴者は同時に送り手でもある双方向の情報化社会となり,番組は放送局が勝手に作るものではなく,視聴者も見る側の意見や考え方を番組に反映し,局と視聴者が一緒に制作する時代の到来と考えることが出来る.従って,番組や情報にウソがあれば視聴者はそれを簡単に見破り,相互信頼関係の瓦解がはじまるのである.放送局にとって視聴者は,民間放送におけるスポンサー以上の大切な存在となったのである.そのことが去る1月のデータ捏造に端を発した社会問題の側面である.つまり,視聴者の感覚は敏感さを増してきたと考えなければならない.放送ジャーナリズムの自立は視聴者に真摯に耳を傾ける姿勢の向こうにある.システムの標準化によって情報はデジタルに,リアルタイムで世界を駆け巡る.主役は今やインターネットである.それによって既存のメディアのありようが問われる時代となったのである.それはメディアの危機というより放送ジャーナリズムの危機である.データ捏造に伴って,放送に対する視聴者の危惧はかつてない高まりを見せていると言えないだろうか.小論では,今年(平成19年)1月に発生した関西テレビの「発掘!あるある大辞典II」におけるデータ捏造を通して,一連の報道と社会の反応や筆者が担当する「マスコミ論(放送)」講座における学生たちとのやりとりなどを踏まえながら,テレビと視聴者の信頼関係の崩壊と課題,放送ジャーナリズムの自立について,その一端を考察するものである.