著者
尾原 信彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理 (ISSN:21851697)
巻号頁・発行日
vol.1, no.2, pp.250-270, 1938-07-01 (Released:2010-03-19)
参考文献数
13

最後に、以上述べて來た事を括めなければならぬ。大體に於て、此地方は笠井市場が其發展の緒を作つた。而して幕政時代より、尾濃に於ける如き多くのマニュファクツールが發展しなかつた爲、買繼商の發達を見ずに、最初は農家の過剩生産を笠井市場に出して、交換した。遠州の出機屋は商人出身であるから、動力化に當つて、工場を自ら立てる事なく、半農の機屋をして、工場主たらしめた。故に遠州の工場の分布地は尾濃の如くマニユファクツールの集中した地ではなく、通常の農村であつたから、第一圖に示す様に遙かに擴散度が高いのである。遠州は最近になつて、ボィル・ポプリン・サロン等の極細絲で織る綿布を製織する様になつて、始めて此地特有の乾燥した西風を防がねばならなくなり、元々小規模の農家出身の者故、設備費の小額を望むに切なものがあつた。然るに立地する土壤としては、埴質壤土 (粘土系) の所が工場内の濕度を保つのに適してゐたが、幸にも古來綿作地であつた北部の農村は、土質が埴質であつたから、其要求と偶然一致した。稍々發達の遅れた南部は棉作地であつたけれども、砂地のために、大體生地綿布が適し、大巾の織機を入れて大規模製産に從事してゐる。商人出身の出機屋の活動は、相次ぐ獨特の織機の發明と相俟つて、力織機採用を他産地に先じ、又市場の開拓も積局的であつたから、出發の遅かつたのを補つて猶ほ餘りあり、最近輸出綿布に轉じてからは、我國では最も進歩した綿布機業地となつた。加工絲使用後は、偶然乍ら、此地方の風土に對する處置を誤らなかつた事は、地理的に最もよく土地を利用したと解する事が出來、今日の隆盛も決して偶發的でなかつた事を斷言し得るのである。