著者
山崎 和邦 谷村 哲夫 高橋 暢雄
出版者
武蔵野学院大学
雑誌
武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要 (ISSN:13498215)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.81-106, 2006-03-15

本稿の基調とするものの一つは「人は誤りは免れ得ないものである」という可謬論(ファラビリズム)なる哲学上の命題であり、もう一つは、投機というものについての一貫した認識である。可謬論については後述し、まずは投機についての認識の仕方について第1章に概述しておくことから始める。本稿では、市場での投資法の経済的効率の大小・強弱を論ずるのみに的をしぼり、善悪・美醜の問題はこれを一切捨象する。本稿は本研究紀要第1輯において、市場は経済合理性に基づいて動くという効率的市場仮説を部分否定し、また伝統的投資方法の限界を論じ、集団的横並び式意志決定が市場においては全く非効率的であることを実証的に述べてきた。今回の論文は勿論その基調の延長線上にあり、その論を補強するものである。まず最初に、分散投資の検証について本研究紀要第1輯における展開は少し不備があったことを認め、2章において、これの補足修正を行う。3章では伝統的投資方法にも成功例があることを認め、世界に著名な二つの例を挙げて、伝統的投資方法の否定に対する補足としたい。続いて4章で不確定性原理下での人間の市場行動を金融工学的手法で解明する試みの限界を説き、5章では罫線論の根拠と限界を論述する。そして6章で、現代にフィットする新しい効率的な投資方法は何かという問題に言及する。それは、本稿で批判してきた方法に「代替するもの」と言い得る意味で文字通り「オルタナティブ投資」と呼ばれるものである。これを前回の本研究紀要第1輯では実証的資料から検討した。世にオルタナティブ投資と呼ばれるものには企業再生ファンド、ヘッジファンド、プライベート・エクイティ、コモデティ投資(鉱山採掘権売買なども含む)などがあるが本稿ではまずヘッジファンドを最初に扱うことにする。
著者
山崎 和邦
出版者
武蔵野学院大学
雑誌
武蔵野学院大学研究紀要 (ISSN:13491598)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.69-87, 2006

(1)本稿はまず,虚業とは何か,虚業と実業を分ける基準は何かを考える.虚業なるものについての数々の誤解を検討し,「虚業とは実業の理念にもとるものの一切を言う」という筆者の仮説を検証する.そのためには「実業の理念」なるものを明確にしておかねばならない.よって,まず,わが国における「実業の理念」の変遷を見ていく.江戸の享保年間に始まるわが国の「実業」が西洋からの職業倫理の輸入を経て,いかにして事実と理念の両面から根付いていったかを,歴史的経緯を通じて明らかにする.(2)当初から人をして錯覚に誘導し「瑕疵ある意思決定」をさせて財物を提供させることは刑法上の詐欺罪を構成するが,これとは異なり,虚業は「結果として虚業になってしまう」ということがしばしば起こる.詐欺が虚業と違うところは詐欺には当初から違法性があり,虚業には必ずしも当初からは違法性はなかったという場合が多いということである.真っ当な企業でも或る程度までは行っている商取引上の駆け引きや自社商品の多少の誇張を,その部分だけを拡大して社会通念上の許容範囲をはるかに越えて遂行した結果,虚業となってしまうケ-スは実に多い.したがって,虚業は当初から違法性を持って行うとは限らない.ここが詐欺行為とは厳然区別すべき点の一つである.(3)虚業とは何かを明らかにした後に虚業の類型化を試みる.真っ当な企業がいかにして虚業に陥るかをも検討する.過失によるケ-スも多く,意図した虚業ではないことも多い.しかし,「結果予見義務は結果回避義務とならんで過失概念の重要な要素」となる.(「過失犯の構造」井上正治著,有斐閣,1981年).故意によらない企業行為を過失犯として処罰し得る合理性はどこにあるかという問題は,日本刑法学界及びコ-ポレ-ト・ガバナンスを問う経営学会上の重要課題であるべきである.