著者
尾西 康充 岡村 洋子
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1a-15a, 2001-03-25

本研究で取りあげる梅川文男は,戦後,三重県議会議員(一期)・松阪市長(三期)をつとめ,革新の立場から手腕をふるった人物である。一九六一(昭和三六)年の就任から死去する六八年まで在職した松阪市長の時代には,文化行政の面で,いくつもの貴重な業績を遺している。『都市部落』・『農村部落』の出版(朝日文化賞受賞),三重県解放運動無名戦士の碑の建立,松阪市戦没兵士の手紙集『ふるさとの風や』の出版,本居宣長記念館の建設(完成したのは没後)などである。戦後半世紀を経た今日から見れば,もはやありふれたものに映るかも知れないが,当時としては,どれも時代に先がけた取り組みばかりであった。彼の取り組みの特徴を一言で述べれば,松阪が担っていたそれまでの歴史的な過去を,それらが持つ正の部分も負の部分も含めて正視しようという姿勢が貫かれている点にある。そのような行政上の実績を評価するうえで,忘れてはならないのは,梅川文男が戦前,農民組合の活動に携わりながら,プロレタリア詩を創作した詩人であったという事実である。戦前に活躍した三重県ゆかりのプロレタリア詩人として,四日市の鈴木泰治と並ぶ,きわめて貴重な存在である。雑誌「詩精神」は「プロレタリア詩雑誌の〈正系〉」(伊藤信吉)をうけ継ぐものであり,そこには,「堀坂山行」というペンネームで書かれた作品が毎号のように掲載されている。三四(昭和九)年一月から翌年十二月まで続けられた「詩精神」には,新井徹・後藤郁子を中心として,小熊秀雄・田木繁・遠地輝武・大江満雄・鈴木泰治など,すぐれた詩人が集まっていた。そのなかの一人として,「農民組合運動のさ中にある詩人」(新井徹)の立場から,梅川文男は農民運動および水平運動に直接関わる詩をいくつも寄稿していたのである。そこで本稿では,まず彼の文学活動について論及しようと考える(次号では,当時の農民組合運動について,淡路時代の記録を紹介しながら,彼の軌跡を明らかにしたい)。さらに巻末には,梅川文男に関わる研究資料として,大山とし氏から閲覧の許可をいただき,翻刻した書簡を紹介する。三・一五事件によって神戸で検挙起訴されていた梅川文男の様子がうかがえる貴重なものである。治安維持法違反の容疑で官憲に拘引されたのが二二歳,それから五年間も囚われの身となるのだが,その若さにもかかわらず,彼には「悟り切った人のようなユウユウたる御心境」がうかがえたという(書簡09 : 二九年六月一八日)。河合秀夫の妻いく子夫人が梅川の父辰蔵に宛てて記した書簡十六通,二八(昭和三)年七月一九日から三〇年九月二九日に至るまでの記録を,原文に従って掲載する。