著者
川森 康喜
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1964, no.10, pp.50-67, 1964 (Released:2009-09-04)
参考文献数
54

今日論議の中心となっている真理問題には、「精密科学ならびに数学的論理学の形式化された真理概念」-この真理は公理の体系の中で矛盾していないことである-と、「純粋に主体的に人間存在へ関連させられた真理規定」-この真理は常にWahrheit für michである-との二つの立場があると考えられる。しかしここで取り上げられるのはいうまでもなくWahrheit fürmichの立場である。この立場は論者によってはプラグマティズムと実存哲学に妥当するとされるが、両者が等しくをWahrheit für michの立場にたつとしても、両者のもつそれぞれの真理の本質構造からみて、明らかに全く同一の真理構造をあらわすとはいえないだろう。しかしここでは主題の性質上プラグマティズムの真理の立場について詳しくは触れない。実存哲学の立場からというよりも、ボルノウの立場からこのWahrheit für michをめぐってそれの構造を分析し、それのもつ意味について明らかにしたい。一般的にWahrheir für michの図式で表わされる真理は、「主体性-真理」のカテゴリーで示され「真理は主体性である」ことを意味する。キェルケゴールの逆説的ないい方によれば「わたくしは真理である」という意味にもとられるだろう。しかし端的にいえばこのWahrheit für michは、わたくしに対する真理、いいかえるとわたくしと真理とのかかわりあい、即ちわたくしがいかに真理とかかわりあうかというように理解すべきである。それ故真理とは「何」 (Was) であるかが問われるのではなくて、むしろわたくしが真理と「いかに」 (Wie) かかわりあうかというわたくしの態度ないし仕方が問われるのである。このような真理の問われ方はまたボルノウの真理に対する根本的な態度でもある。したがってここで問題とされるのは「わたくしと真理とのかかわりあいの仕方」をボルノウが具体的にはどのような意味において受けとめているか、いわば彼における真理の本質についてである。ところでボルノウの真理追求の経過をみると、彼は精神科学の方法論的自立根拠を尋ねることでもって彼の真理問題の発想の拠りどころとした。自然科学とは異なった学的根拠を精神科学に求めること、即ち精神科学に独自な方法論的認識を尋ねることによって真理の本質に触れるのである。いいかえると精神科学の客観性を問うことによって真理の本質を追求する。しかも厳密にいえば後に明らかになるように、精神科学における真理の解明を通じて究極的には真理の実存的性格を明らかにするのである。精神科学は彼によれば、人間の生命に直接かかわる学であって、それの究極の狙いは人間生命の全体的関連を認識し明らかにするところにある。それ故精神科学の方法論的認識を問うことは、そのまま人間の生命の全体的関連における認識の機能を問うことになる。だから人間の生の形成をその究極の目的とする教育学が、自らの思考形式を精神科学の思考形式にその範を求めるとしても、なんら不当ではないだろう。もとより教育学が社会科学の範疇に属するか、それとも精神科学の範疇に属するかは今日の一つの問題である。しかし教育学の思考形式の一つを設定する意味において、われわれは精神科学の方法論的認識にアプローチすることに異議をもたないであろう。それ故この論文の主題はボルノウにおける真理の本質を解明するところにあるが、この解明を通じて教育学的思考ないし教育学の方法論的認識に対して一つの示唆を与えれば幸いである。