著者
廣瀬 覚 高田 祐一
出版者
独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所
雑誌
奈良文化財研究所学報 : 日韓文化財論集4
巻号頁・発行日
no.100, pp.1-43, 2021-03-31

本稿では、古代国家成立期の日韓の石工技術を比較し、その共通性と差異を確認する作業を通じて、古代日韓の石工技術の発展過程とその歴史的意義を追究した。古代日韓における石工技術の最大の相違は、矢穴技法による石材切断工程の有無にある。朝鮮半島では、三国時代には初源的な矢穴技法が出現するものの、その本格的な導入は7世紀中頃以降であり、統一新羅時代には特徴的な縦断面三角形の矢穴が登場する。高麗時代以降は再び方形矢穴に回帰することからも、三角形矢穴の展開は新羅の盛衰とほぼ軌を同じくしており、その背景には国家的造営事業を通じて専業化を遂げた石工集団の存在を推測することができる。また、新羅の矢穴技法は石材の成形を主目的とするものであり、採石自体は自然の節理や転石に大きく依拠するものであった。飛鳥時代初期に朝鮮半島から伝来した硬質石材の加工技術は、半島でも矢穴技法が未成熟の段階のもので、自然の転石・塊石をノミによる敲打で表面処理するだけの相対的に簡易なものであったとみられる。結果的に、7世紀中頃以降の石材加工の複雑化や消費の拡大に対して、半島では矢穴技法を用いて硬質石材を成形していくのに対し、同技法を欠く日本では軟質の凝灰岩を中心的素材とすることで、これに対処せざるを得なかったものと考えられる。そうした技術的相違が存在する一方で、日本、朝鮮半島ともに、国家の宗教的・政治的施設の造営事業を通じて7世紀後半に石工技術が急速に発達を遂げていく点では一致をみている。その背景には、強大な唐の圧力に対峙すべく、政治・文化諸制度を急ぎ整備していこうとする日韓に共通した国家的課題の存在を見て取ることができる。