著者
斉藤 修三
出版者
青山学院女子短期大学
雑誌
青山学院女子短期大学総合文化研究所年報 (ISSN:09195939)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.155-175, 2001-12-25

「人はなぜ差別するのか?」振り返ると,ここ数年わたしはこの問いばかりを追いかけてきたようだ。聖書に「あなたは寄留(きりゅう)の他国人をしえたげてはならない。あなた方はエジプトの国で寄留の他国人であったので,寄留の他国人の心を知っているからだ」(出エジプト記)とあるが,問題はこの言葉に集約されると思う。自他を分ける壁を絶対視し,自己のなかに他者を,他者のなかに自己を見る想像力をなくしたとき,差別はしのびよる。元来人はみな「寄留の他国人/よそ者」だった。なぜなら一回限りの<出来事(いのち)>である以上,反復可能なカテゴリーでしかない「何者か」という言葉が再現できない余剰,語りえずしたがって不可知の<よそもの性>こそが「固有のわたし」の正体だからだ。取り替えのきく「何者か」ではなく,唯一無二の「よそ者=究極の少数派(マイノリティ)」だからこそ<個>は壊れやすく希少なはずなのに,孤独を怖れるあまり自己の異質性を認められないわたしたちが「同じ何者か」という表象の虚妄にしがみつき,固定された主体や帰属意識(アイデンティティ)でしか人を見れなくなったとき,人種民族・国籍・性別などをめぐり序列化された見えない国境線が実体化され,よそ者は被差別者となる。そのかき消された声をふたたびわたしたちに届け,内なるよそ者のつぶやきを呼び覚まし共振させる<声の運び屋>が,チカーナの詩人作家シスネロスの派遣する少女エスペランザである。