著者
早川 由真
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.75-93, 2019-07-25 (Released:2019-11-19)
参考文献数
40

本論文の目的は、縫合理論を手がかりに、リチャード・フライシャー『見えない恐怖』(See No Evil, 1971 年)における不可解なショットの分析を通じて、殺人者というキャラクターの生成(およびその不成立)のメカニズムを明らかにすることである。このフィルムにおける不可視性を活かしたサスペンスは高く評価されてきたが、クライマックスにおいてキャメラが水中からジャッコを見上げる不可解なショットに関しては、暴力や死の不可視化に関連しているにもかかわらず、これまでに論じられてこなかった。そこでまず、盲目の主人公・サラの「視点」を示すかのようなこのショットを、エドワード・ブラニガンの議論を手がかりに、〈盲者の視点ショット〉ととらえる視座を導きだす(第 1 節)。次に、縫合理論をキャラクターの生成という観点から整理しつつ、顔の見えない殺人者がクライマックスの直前でブーツをわざわざ脱ぐために、ブーツとジャッコの顔がいちども同一画面に映りこまないという事実を指摘する(第 2 節)。そして、殺人者の現れ方を分析していく過程で、ブーツとジャッコの顔の結びつき、すなわち〈身体の縫合〉には綻びがあり、ジャッコは殺人者というキャラクターとしてうまく成立しないことを明らかにする。最終的に、水中からのショットにおいては、不可視であるはずの殺人者の顔が不在(無)として画面上に露呈するという複雑な事態が生じていることが浮かびあがってくる(第 3 節)。
著者
早川 由真
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.5-24, 2018

<p>【要旨】</p><p>映画において画面上に映しだされる身体とは、どのような存在なのか。この問題を考えるにあたり、本論文はリチャード・フライシャー監督『絞殺魔』(1968)を取り上げる。トニー・カーティス演じるアルバート・デサルヴォという存在には、これまでの研究では指摘されてこなかった、画面上の身体としての在り方の特異性が表れているのだ。精神病的な観点からこの作品を論じた先行研究は、デサルヴォが〈第2 の人格が真犯人である分裂した存在〉であることを前提にしているが、本論文はそれを前提にしない。本論文の目的は、スティーヴン・ヒースが分類した物語映画における「人々の存在」の各項目を仮設的枠組みとして用いつつ、テクスト内外の諸要素を多角的な観点から分析し、それぞれの項目にはうまく収まらないデサルヴォの在り方の特異性を明らかにすることである。まず第1 節では、カーティスのスター・イメージ、およびメディア言説におけるデサルヴォ像を検証する。第2 節では、デサルヴォを真犯人に見せるプロセスを指摘し、不可視性や声を手掛かりにそのプロセスにおける綻びを見出す。第3 節では、デサルヴォを主体化しようとする可視化の暴力のメカニズムを示し、終盤の尋問の場面における身振りを論じる。最終的に、不可視の体制、可視化の暴力、別の不可視の領域、この3 つの段階をたどった後に〈白の存在〉へと至るその在り方が明らかになる。</p>

1 0 0 0 OA 白の存在

著者
早川 由真
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.5-24, 2018-01-25 (Released:2018-06-11)
参考文献数
23

【要旨】映画において画面上に映しだされる身体とは、どのような存在なのか。この問題を考えるにあたり、本論文はリチャード・フライシャー監督『絞殺魔』(1968)を取り上げる。トニー・カーティス演じるアルバート・デサルヴォという存在には、これまでの研究では指摘されてこなかった、画面上の身体としての在り方の特異性が表れているのだ。精神病的な観点からこの作品を論じた先行研究は、デサルヴォが〈第2 の人格が真犯人である分裂した存在〉であることを前提にしているが、本論文はそれを前提にしない。本論文の目的は、スティーヴン・ヒースが分類した物語映画における「人々の存在」の各項目を仮設的枠組みとして用いつつ、テクスト内外の諸要素を多角的な観点から分析し、それぞれの項目にはうまく収まらないデサルヴォの在り方の特異性を明らかにすることである。まず第1 節では、カーティスのスター・イメージ、およびメディア言説におけるデサルヴォ像を検証する。第2 節では、デサルヴォを真犯人に見せるプロセスを指摘し、不可視性や声を手掛かりにそのプロセスにおける綻びを見出す。第3 節では、デサルヴォを主体化しようとする可視化の暴力のメカニズムを示し、終盤の尋問の場面における身振りを論じる。最終的に、不可視の体制、可視化の暴力、別の不可視の領域、この3 つの段階をたどった後に〈白の存在〉へと至るその在り方が明らかになる。