著者
木村 尚子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.21-35, 2012 (Released:2013-11-30)
参考文献数
54

岩崎直子(1868-1950)は、明治政府による新しい産婆教育のもとで養成された産婆として、はじめて天皇家にかかわった産婆である。彼女は、のちの大正天皇の子四人の出生介助にあたり、これによって産婆界内外で特異な地位を手に入れる。1910年代から1920年代は産婆職の興隆期であり、また正常産に介入する医師との間に競合が増す時期である。本稿は、岩崎という一人の産婆の著述を軸に、産婆が、天皇家とのかかわりを強調することで自らの権威を高めようとする経緯を明らかにする。岩崎は、その持ち前の熱意に加え、幼い子どもと夫を相次いで失ったことから産婆職に情熱を傾け、妊産婦に啓蒙を図るほか、産婆団体においても指導的立場に立つ。この時期、衛生行政からの要請と大正デモクラシーを背景に産婆の職能集団が形成され、さらに産婆たち自身が、その職の権益を守り業務の独自性を主張して産師法(産婆法)制定運動と呼ばれる運動を展開しはじめる。岩崎はこの運動において天皇家との関係を精神的支柱とし、さらにそれは、その後の戦時下人口管理体制のもとに産婆・助産婦を集結するにあたり大きな効果を及ぼしていく。天皇を「生ましました」産婆・岩崎は、1910年代半ばの新中間層に天皇家の母に象徴される「母性」への関心を「生まし」、また続く1920年代には、天皇を頂点とする国家に「御奉公」する産婆やその職能団体を「生ましました」産婆であった。岩崎にとって産婆職は生計を立てる手段という以上の大きな意味をもち、天皇家に関与したことは彼女の誇りや自信であった。同様の努力、あるいは総体としての産婆職の資質向上を、岩崎が必須と感じたのは無理からぬことであった。岩崎が主導した産婆の運動は男性医師や衛生官僚に対抗する女性の権利確立を目指すものであったが、同時に彼女の主張は、その職を通じて天皇家を支え、そのことによって産婆や妊産婦らに天皇家の存在意義を強く印象づける役割を果たしたのである。