著者
東海 義仁
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
no.4, pp.33-39, 2018-07-30

短編集『女のいない男たち』には六つの作品が収録されている。斎藤環はそれらに共通するテーマを「性愛の不条理」という謎として捉え、清水良典はこの短編集が「セックスの介入によって理不尽に破壊される人間の弱さへの恐怖」を想起する。本稿では、この短編集の出発点と作者自身に評される「ドライブ・マイ・カー」を中心に分析を行う。都甲幸治は、家福が乗るサーブは「そのまま妻の身体でもある」とした上で、みさきがサーブに乗車できた理由について考察を深めるが、本稿ではサーブの中の座る位置によって視点が転換することを指摘するため、サーブ=妻の身体であるという大枠には則らない。例えば、物語の冒頭で家福が女性ドライバーを二分類するのは運転席以外の席に乗ったとき(視点が転換しているとき)であり、この二分類が家福と高槻にも当てはまるものであることは語りの偏りを指摘するうえで重要である。山本千尋は家福の「生きる姿勢」に注目し、家福のブラインドスポット(盲点)について指摘する。確かに家福は接触事故を機に、緑内障による自身のブラインドスポットに気づかされる。一方で、運転免許証が停止になった原因にはアルコールの検知も含まれており、その原因の大部分を緑内障によるブラインドスポットのせいであると考える家福の考え方には偏りがあるだろう。また、本作品は男性サイドに偏った語りにより構成されており、女性サイドの視点が欠如している。加えて、中性的なみさきという人物にその語りを肯定させることで語りの偏りが隠蔽されていることも指摘する。家福が行う評価の枠組みに家福自身も含まれていることは、語りの偏りが隠蔽されることで気づきにくくなる。作品内に存在する要素で、これまでとは異なる観点に着目して語りの偏りを指摘し、その効果についても考えたい。
著者
東海 義仁
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.33-39, 2018-07-30

短編集『女のいない男たち』には六つの作品が収録されている。斎藤環はそれらに共通するテーマを「性愛の不条理」という謎として捉え、清水良典はこの短編集が「セックスの介入によって理不尽に破壊される人間の弱さへの恐怖」を想起する。本稿では、この短編集の出発点と作者自身に評される「ドライブ・マイ・カー」を中心に分析を行う。都甲幸治は、家福が乗るサーブは「そのまま妻の身体でもある」とした上で、みさきがサーブに乗車できた理由について考察を深めるが、本稿ではサーブの中の座る位置によって視点が転換することを指摘するため、サーブ=妻の身体であるという大枠には則らない。例えば、物語の冒頭で家福が女性ドライバーを二分類するのは運転席以外の席に乗ったとき(視点が転換しているとき)であり、この二分類が家福と高槻にも当てはまるものであることは語りの偏りを指摘するうえで重要である。山本千尋は家福の「生きる姿勢」に注目し、家福のブラインドスポット(盲点)について指摘する。確かに家福は接触事故を機に、緑内障による自身のブラインドスポットに気づかされる。一方で、運転免許証が停止になった原因にはアルコールの検知も含まれており、その原因の大部分を緑内障によるブラインドスポットのせいであると考える家福の考え方には偏りがあるだろう。また、本作品は男性サイドに偏った語りにより構成されており、女性サイドの視点が欠如している。加えて、中性的なみさきという人物にその語りを肯定させることで語りの偏りが隠蔽されていることも指摘する。家福が行う評価の枠組みに家福自身も含まれていることは、語りの偏りが隠蔽されることで気づきにくくなる。作品内に存在する要素で、これまでとは異なる観点に着目して語りの偏りを指摘し、その効果についても考えたい。
著者
東海 義仁
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
no.3, pp.55-60, 2018-02-15

「バースデイ・ガール」は、平成二八年度中学校用『伝え合う国語 中学国語3』(教育出版)の三年生に掲載され教科曹教材にもなっている、村上春樹の短編作品の―つであり、教科書に掲載されて日が浅いこともあって本作品の教材としての研究は不十分である。深津謙一郎氏は「あなたはきっともう願ってしまったのよ」という彼女の台詞から「『僕』もかつて『あとになって思い直してひっこめることはできない』類の願いごとを『ひとつだけ』選んだ結果、今こうあるのだ、と。にもかかわらず、『僕』がそのことを思い出せないのは、『僕』がその起源(の選択)を想起しなくてよい程、今に不満を感じていないからである」と「僕」について解読して、老人については「彼女の話を聞いたあとの事後的な視点から、『何かのめぐりあわせ』というマジック・ワードで必然化してみせた」ことを指摘する。大木志門氏は「僕」が人生の「一回性を無自覚に生きてきた」存在であることと「人生の選択を迫られた」存在である彼女の対比、そしてその「人生の一回性」を「それ自体が呪い」である可能性を指摘する。しかし、深津氏も大木氏もそれぞれ「僕」についての指摘が行き過ぎている。「あなたはきっともう願ってしまったのよ」という彼女の台詞の通りに解読しても、「僕」が今に不満を感じていないことは明らかにはならず、そもそも彼女との対比という点のみで「僕」が人生の「一回性を無自覚に生きてきた」存在であると導き出すのには無理がある。本作品は空白が多数存在しているため、その可能性を示すことはできても、断定するためにはあまりにも情報が足りないため、彼女の願いごと一つとっても特定することに意味はないだろう。本稿では、西田谷洋氏が指摘するユーモアを用いた解読を踏まえながら、これまで見落とされていた作品内に存在する類似したレトリックについて指摘をしつつ、老人の発言を受け取ったことで変化が生じた彼女が、二十歳の誕生日から数十年後に「僕」とやり取りをする中にも変化が生じる可能性があることを確認する。また、本作品の最後に老人の台詞が再挿入されることが強調することも明らかにする。