著者
須貝 航太
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.13-17, 2018-02-15

岡真理「虚構のリアリズム」(『現代文B』教育出版二〇―四)は、『記憶/物語』(岩波薯店二〇〇〇・二)の一節「虚構のリアリズム」を底本とし、一部書き改められたものである。『現代文B 教授資料』(教育出版二〇―四・一)を踏まえて、教材の要旨を以下にまとめた。スピルバーグにおけるリアリズムが作り出す「リアル」な映像は、言葉で説明できる、また映像で再現できるといったものだけで形成されている。ゆえにスピルバーグのリアリズムでは、言葉にもならず、再現もできない現実や、抑圧された記憶は、「リアル」ではないものとして除外されている。つまりこれは、自らが知覚できない存在(=他者)を否定することにつながる。岡氏は、「現代アラブ文学や第三世界フェミニズム思想の研究を通して、パレスチナ問題をめぐる国際社会のあり方や私たちの意識について精力的に発言を続けている」人物である。とすれば、彼女の主張は、現在のマスメディアが提供する「リアル」な情報とは、故意の有無にかかわらず、情報提供者が意図する以外の事実を、情報の受け手が知覚できないように再構成されている故に、情報があふれる情報化社会において、ニュースの映像や写真といったリアルな描写を真として満足するのではなく、それが隠蔽している真実の探求を意識しなければならないとなるのではないか。しかし、それは妥当だろうか。本稿では、教材における、岡氏の主張とその根拠の妥当性を検討する。そこで第二節では、『プライベート・ライアン』の視覚的な再現/表現の間題から岡氏の記述を分析し、第三節では岡氏が対比的に称揚するバドル『鏡の目』の分析から岡氏の記述を検証する。さらに第四節ではもう少し広い視野にたち、フィクション/リアルの問題と技術によるリアリティの成否の問題並びに岡氏のポジションをもとに、その記述を考察する。p1(抄録)のみ掲載
著者
東海 義仁
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
no.4, pp.33-39, 2018-07-30

短編集『女のいない男たち』には六つの作品が収録されている。斎藤環はそれらに共通するテーマを「性愛の不条理」という謎として捉え、清水良典はこの短編集が「セックスの介入によって理不尽に破壊される人間の弱さへの恐怖」を想起する。本稿では、この短編集の出発点と作者自身に評される「ドライブ・マイ・カー」を中心に分析を行う。都甲幸治は、家福が乗るサーブは「そのまま妻の身体でもある」とした上で、みさきがサーブに乗車できた理由について考察を深めるが、本稿ではサーブの中の座る位置によって視点が転換することを指摘するため、サーブ=妻の身体であるという大枠には則らない。例えば、物語の冒頭で家福が女性ドライバーを二分類するのは運転席以外の席に乗ったとき(視点が転換しているとき)であり、この二分類が家福と高槻にも当てはまるものであることは語りの偏りを指摘するうえで重要である。山本千尋は家福の「生きる姿勢」に注目し、家福のブラインドスポット(盲点)について指摘する。確かに家福は接触事故を機に、緑内障による自身のブラインドスポットに気づかされる。一方で、運転免許証が停止になった原因にはアルコールの検知も含まれており、その原因の大部分を緑内障によるブラインドスポットのせいであると考える家福の考え方には偏りがあるだろう。また、本作品は男性サイドに偏った語りにより構成されており、女性サイドの視点が欠如している。加えて、中性的なみさきという人物にその語りを肯定させることで語りの偏りが隠蔽されていることも指摘する。家福が行う評価の枠組みに家福自身も含まれていることは、語りの偏りが隠蔽されることで気づきにくくなる。作品内に存在する要素で、これまでとは異なる観点に着目して語りの偏りを指摘し、その効果についても考えたい。
著者
東海 義仁
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.33-39, 2018-07-30

短編集『女のいない男たち』には六つの作品が収録されている。斎藤環はそれらに共通するテーマを「性愛の不条理」という謎として捉え、清水良典はこの短編集が「セックスの介入によって理不尽に破壊される人間の弱さへの恐怖」を想起する。本稿では、この短編集の出発点と作者自身に評される「ドライブ・マイ・カー」を中心に分析を行う。都甲幸治は、家福が乗るサーブは「そのまま妻の身体でもある」とした上で、みさきがサーブに乗車できた理由について考察を深めるが、本稿ではサーブの中の座る位置によって視点が転換することを指摘するため、サーブ=妻の身体であるという大枠には則らない。例えば、物語の冒頭で家福が女性ドライバーを二分類するのは運転席以外の席に乗ったとき(視点が転換しているとき)であり、この二分類が家福と高槻にも当てはまるものであることは語りの偏りを指摘するうえで重要である。山本千尋は家福の「生きる姿勢」に注目し、家福のブラインドスポット(盲点)について指摘する。確かに家福は接触事故を機に、緑内障による自身のブラインドスポットに気づかされる。一方で、運転免許証が停止になった原因にはアルコールの検知も含まれており、その原因の大部分を緑内障によるブラインドスポットのせいであると考える家福の考え方には偏りがあるだろう。また、本作品は男性サイドに偏った語りにより構成されており、女性サイドの視点が欠如している。加えて、中性的なみさきという人物にその語りを肯定させることで語りの偏りが隠蔽されていることも指摘する。家福が行う評価の枠組みに家福自身も含まれていることは、語りの偏りが隠蔽されることで気づきにくくなる。作品内に存在する要素で、これまでとは異なる観点に着目して語りの偏りを指摘し、その効果についても考えたい。
著者
榊 祐一
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
no.3, pp.39-40, 2018-02-15

九〇年代前半からの「文化研究」化の進展により文化全般を研究対象にし得るようになった日本近代文学研究が、ある種のポピュラー文化(≒アニメ・漫画・ラノベ等の若者向けエンタテイメント)を本格的に射程に入れ始めたのはゼロ年代中頃のこと。日本近代文学研究者を主な書き手とするポピュラー文化論集としての性格を持つ本書は(河野のみ英文学者)、まさにそのような流れの中に位置づけられるものであり、編著者西田谷を含め、日本近代文学研究者でありつつポピュラー文化研究をも積極的に進めてきた研究者が多く含まれている。類書としては『日本サブカルチャーを読む』(二〇一五)があるが、その題名からも伺えるように、本書は文学研究者によるポピュラー文化論集という性格に収まるものではない。本書はポピュラー文化だけでなく、ポピュラー文化「批評」をも「文学研究の立場から考察」しようとするものだからである(西田谷「はじめに」)。
著者
東海 義仁
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
no.3, pp.55-60, 2018-02-15

「バースデイ・ガール」は、平成二八年度中学校用『伝え合う国語 中学国語3』(教育出版)の三年生に掲載され教科曹教材にもなっている、村上春樹の短編作品の―つであり、教科書に掲載されて日が浅いこともあって本作品の教材としての研究は不十分である。深津謙一郎氏は「あなたはきっともう願ってしまったのよ」という彼女の台詞から「『僕』もかつて『あとになって思い直してひっこめることはできない』類の願いごとを『ひとつだけ』選んだ結果、今こうあるのだ、と。にもかかわらず、『僕』がそのことを思い出せないのは、『僕』がその起源(の選択)を想起しなくてよい程、今に不満を感じていないからである」と「僕」について解読して、老人については「彼女の話を聞いたあとの事後的な視点から、『何かのめぐりあわせ』というマジック・ワードで必然化してみせた」ことを指摘する。大木志門氏は「僕」が人生の「一回性を無自覚に生きてきた」存在であることと「人生の選択を迫られた」存在である彼女の対比、そしてその「人生の一回性」を「それ自体が呪い」である可能性を指摘する。しかし、深津氏も大木氏もそれぞれ「僕」についての指摘が行き過ぎている。「あなたはきっともう願ってしまったのよ」という彼女の台詞の通りに解読しても、「僕」が今に不満を感じていないことは明らかにはならず、そもそも彼女との対比という点のみで「僕」が人生の「一回性を無自覚に生きてきた」存在であると導き出すのには無理がある。本作品は空白が多数存在しているため、その可能性を示すことはできても、断定するためにはあまりにも情報が足りないため、彼女の願いごと一つとっても特定することに意味はないだろう。本稿では、西田谷洋氏が指摘するユーモアを用いた解読を踏まえながら、これまで見落とされていた作品内に存在する類似したレトリックについて指摘をしつつ、老人の発言を受け取ったことで変化が生じた彼女が、二十歳の誕生日から数十年後に「僕」とやり取りをする中にも変化が生じる可能性があることを確認する。また、本作品の最後に老人の台詞が再挿入されることが強調することも明らかにする。
著者
高木 佐和子
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-18, 2018-07-30

小川洋子『まぶた』(新潮社二〇〇一・三、新潮文庫二〇〇四・一一、本稿での引用底本は文庫版)は、一九九三年から二〇〇〇年にかけて雑誌に発表した「お料理教室」 (『文学界』一九九三・ニ)・「中国野菜の育て方」(『中央公論文芸特集』一九九三春季号)・「詩人の卵巣」(『小説すばる』一九九四・一〇) ・「まぶた」(『新潮』一九九六・九)・「バックストローク」(『海燕』一九九六・一一)・「飛行機で眠るのは難しい」(『一冊の本』一九九六・―二)・「匂いの収集」(『サントリークォータリー』一九九八・八)・「リンデンバウム通りの双子」(『新潮』二〇〇〇・一〇) の八篇を収録している。本稿では、本文の傾向をもとに『まぶた』を大きく三つに分類し、各作品について論じるとともに『まぶた』の全体像を探っていく。まず、小川がアンネを巡る旅に出る以前の初期作品(「中国野菜の育て方」「お料理教室」)を考察し小川洋子作品全体を支える特徴を見出す。斉藤環氏は「お料理教室」において、食品は封印と増殖が描かれており、不安定さを象徴する存在であると指摘するが、小川洋子の作品全体の不安定さは食だけに限らないだろう。次に表題作「まぶた」を中心とした暴力を感じさせる三作品(「まぶた」「匂いの収集」「バックストローク」)、そして「書くこと」を中心とした三作品(「飛行機で眠るのは難しい」「詩人の卵巣」「リンデンバウム通りの双子」)について考察する。最後に作品を読解することで可能になる短編集『まぶた』全体の解釈を考える。本研究を通して、小説を通して小川洋子が描き出す物語観が多様で単一の視点にとどまらない深い魅力を含んでいることを提示する。
著者
黄 亜蘭
出版者
富山大学人間発達科学部日本文学会
雑誌
富山大学日本文学研究 (ISSN:24326216)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.7-12, 2017-07-31

小川洋子「人と人が出会う手順」(「小川洋子のmy memorabilia「私」の中の愛おしい記憶」『Donami』二〇〇八・六、のち『カラーひよことコーヒー豆』小学館文庫二〇〇九・一二、『国語総合』数研出版二〇〇三・一で教材化)は、「孤立感に涙する時間や効率の悪い作業や「私」が出会った祖母そっくりのガイドさんのように神様の気紛れとしか思えない偶然の果てに巡り合った仲間の方が味わい深い。そこには人が出会う手順が踏まれている」という趣旨のエッセイである。しかし、孤独な収集家の少女、灯台守を研究する人や、神様の気紛れとしか思えない偶然を求める人が望む出会いは、たやすく訪れてこない。その前に色々を耐えなければならない。小川洋子は「ひよこトラック」(『海』新潮文庫二〇〇九・三)で、物言わぬ抜け殻収集家の少女と仲間のいない初老独身男性との交流を描いた。「孤立感に涙する時間」を耐えながら、孤独な少女は誰かとの出会いを待っていた。「仲間と出会いたければ、ポスターを描き、一枚一枚糊で貼り付けてゆくくらいしか方法がな」い灯台守研究会の人も同じである。破れかけたポスターを頼りに、仲間との出会いを待っている。が、望んだ出会いに出会う可能性の低さに想像が付く。抜け殻収集家の少女と灯台守研究会の人には共通点がある。それは「効率の悪い作業」をしつつ、出会うべき誰かと待っていることである。世の中に出会い方は様々である。キーボードのボタンをクリックすることで出会った仲間もいれば、孤立感に涙する時間や効率の悪い作業を通じて、巡り巡って、出会うべき誰かと出会えた人もいる。涙にする時間や効率の悪い作業を我慢しながら、出会うべき誰かと出会う瞬間は「自分の中に持っている強い意志が他者のそれと触れ合う瞬間」である。それこそが「私」の言う「人と人が出会うに相応しい手順」がきちんと踏まれていることでなる。本稿はそのような出会いの難しさをふまえ、出会いを支える家族的類似性及び小川洋子作品の消滅と痕跡のモチーフを分析する。