- 著者
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柴田 惠美
- 出版者
- 拓殖大学言語文化研究所
- 雑誌
- 拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
- 巻号頁・発行日
- no.145, pp.31-55, 2021-10-29
能という日本独自の文化表象に,憐憫というキリスト教的概念が内包される可能性を示した論考である。能『恋重荷』の主人公,悪霊となって皇妃を責め苛んでいた荘司が,僧侶の調伏の場面もなく一転して皇妃の守護神へと変身する唐突とも言える劇展開は,中世に発達した神仏習合思想及び菩薩信仰によって論理的に解釈する事が可能である。それはまず,「苦しむ神」荘司と,人間としての業の深さと救われなさという現実を直視した皇妃両者の心に抱える「苦しみ」を通して彼らが心身共に一体化するという考え方を前提とするが,一体化する事で荘司の思いが成就し,妄執から解き放たれた彼がより高い仏性を感得し,結果として皇妃を見守る守護神へと変身したとする捉え方である。そして次に,皇妃の心に宿った憐憫の情,慈悲の心に菩薩性が宿り,その菩薩性に触れた荘司が慈悲と祈りによって救済され,最終的には彼自身が菩薩となって皇妃の守護神になるという考え方である。一方,劇展開における荘司と皇妃の内面の変化は,ベルクソンの説く人格的傾動・人格的ないし利己主義的情念,または共感的ないし愛他主義的傾動によって説明されうる。共感的ないし愛他主義的傾動には憐憫(pitié)の作用が係るが,このpitiéというキリスト教用語が示す概念と,少なくとも『恋重荷』で読み取れる憐憫や慈悲という仏教的観念は,魂救済への切実な祈りが内包されるという点において,ほぼ同義のものであると言えよう。