著者
長縄 祐弥
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies
巻号頁・発行日
vol.146, pp.239-263, 2022-03-25

本稿では,dentro de 100 metros「100メートル先」という表現におけるdentro deの空間的意味について考察をおこなう。この前置詞句はdentro de 5 minutos「5分後」のように主に時間的意味に使用される表現であるが,この時間的意味のような振る舞いで用いられる空間的意味も存在する。コーパスにおけるこの空間的意味は,用例数は乏しいものの,文法的に問題はなく,容認される。ただし,時間的意味から空間的意味への拡張という,通例とは反対の方向に意味拡張がおこなわれる点について考察をおこなう必要があると考えられる。結論として,この前置詞句は発話時を基準としたとき,空間よりも時間のほうが必ず「先」を表せる点で時間的意味として用いられやすいことを確認した。これに加え,発話時の地点から終点まで断続的に移動することを含意する必要のある空間的意味は時間的意味に比べ,文脈が限定されるため,時間的意味から空間的意味へ拡張しているととらえることが可能であるとした。
著者
村上 祥子
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
no.140, pp.193-217, 2019-03-29

法師の呪術は共同研究テーマの中で,呪いあるいは迷信の範疇としてとらえることができる。法師が実際の現場で行う呪術とは経文と設経であり,どのように祭祀を行うのか,経文にはどのようなものがあり,どのような効果を持つのか,どのように唱えられているのか,また祭場を飾る設経とは,具体的にどのようなものかを現場の調査を踏まえて考察した。法師の出現は古く高麗時代の盲僧に連なる存在であるといわれ,現在は目がみえる法師により継承されている。韓国で一般的に行われる巫堂による祭祀は,歌と舞により 請神 ⇒ 娯神 ⇒ 送神の構造で行われ,現世の招福を願うものである。それに対し,法師の祭祀は,経文を唱えることと,設経という祭場に取り付ける紙を切った造形により 請神 ⇒ 脅神 ⇒ 送神を行うことで,厄災を払い招福を願うことである。その構造に大きな違いがある。また巫堂は降神巫と世襲巫に分けることができるが,法師は学習によりその技術を修得することから学習巫として理解されている。法師の経文や設経は口承が主であり,師匠によりそれぞれの特徴を有しており,一貫性はない。法師の祭祀は現在では座経といわれるが,実際に行われる経文についてその性質を概観した。また設経は三か所に天禁・内禁・外禁と称され取り付けられる。各設経の意味と,目的をその造形を通して考察した。目には見えない法師の呪術は,耳を通して経文として,目を通して設経としてその効果を発揮するものである。
著者
三井 美穂
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.279-295, 2020-03-25

アメリカ社会を理解するためのテクストとして映画を使用する場合,どのようなトピックをどのような切り口で扱うのが効果的だろうか。本稿では映画『フォレスト・ガンプ一期一会』をテクストとし,アメリカがどのように描かれているかを考察する。1994 年に製作されたこの映画は,1950 年代から1990年代はじめにかけてのアメリカ社会を背景として,一南部人の半生を描いたものである。20 世紀後半の社会の動きを知るだけでなく,1994 年当時の社会にスポットを当て,この映画が製作された土壌について考察することもできる。主人公が南部人であることから,取り上げるトピックは南部の地域性,人種問題,反体制運動の3 点とし,そのトピックを互いに関連させながら映画を解釈していく。それにより,映画に描かれているアメリカの保守的文化を浮かび上がらせ,それを取り巻く,或いは対立する動きを読み取っていく。アメリカ社会の一側面を提示することが本稿の狙いである。
著者
岩田 道子
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku Language Studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.138, pp.1-37, 2018-03-31

ギリシャ神話の女神はアジア諸地域の地母神信仰にルーツを持つものが多い。ヴィーナスもその1 人で,ギリシャに移入されると愛を司る女神として神話の中に多くの逸話を残している。イギリス・ルネサンスに至り特にエリザベス1 世治世下で興隆した演劇文化の中に,ヴィーナスは他の神話的人物ともに登場してくる。純潔という美徳を体現する女王がパトロンでもあるエリザベス朝演劇において,御前公演を前提とする宮廷劇に登場するヴィーナスとシェイクスピアの物語詩『ヴィーナスとアドニス』に描かれたヴィーナス像との違いを愛の諸層の中で論ずるものである。愛と結婚の概念の変化と処女女王エリザベス1 世の存在によって,ヴィーナスの姿は愛の実相を映し出す鏡の役割を果たしている。
著者
三井 美穂
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
no.142, pp.279-295, 2020-03

アメリカ社会を理解するためのテクストとして映画を使用する場合,どのようなトピックをどのような切り口で扱うのが効果的だろうか。本稿では映画『フォレスト・ガンプ一期一会』をテクストとし,アメリカがどのように描かれているかを考察する。1994 年に製作されたこの映画は,1950 年代から1990年代はじめにかけてのアメリカ社会を背景として,一南部人の半生を描いたものである。20 世紀後半の社会の動きを知るだけでなく,1994 年当時の社会にスポットを当て,この映画が製作された土壌について考察することもできる。主人公が南部人であることから,取り上げるトピックは南部の地域性,人種問題,反体制運動の3 点とし,そのトピックを互いに関連させながら映画を解釈していく。それにより,映画に描かれているアメリカの保守的文化を浮かび上がらせ,それを取り巻く,或いは対立する動きを読み取っていく。アメリカ社会の一側面を提示することが本稿の狙いである。
著者
阿久津 智
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.1-34, 2019-10-31

本稿では,漢文訓読を,日本語を客観的に見直し,言語の構造について考える機会ととらえ,漢文の構造を図解する方法について論じた。漢文訓読は,漢文(古典中国語)から日本語への構造の変換と見ることができるが,修飾成分(修飾語)が,被修飾成分(主要語)の前にも(「連用修飾語-述語」など),後にも(「述語-目的語」など)置かれることのある漢文を,修飾成分が必ず被修飾成分の前に置かれる日本語に変える際には,語順がそのままであったり,逆になったりするため,(後者の場合だけに使われる)返り点では,その構造がとらえにくい場合がある。そこで,本稿では,文の構造を階層構造(句構造)として分析し,その係り受けを矢印で示すことで,文の構造と訓読の順序とを示す図解方法を試みた。
著者
渡邉 俊彦
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.259-277, 2020-03-25

本稿は,台湾華語の句頭に出現する「啊」を扱い,関連の先行研究からこの「啊」が台湾で使われる理由を整理することを目的とする。句頭とは,発話の最初あるいはフレーズの最初の位置のことを指す。この台湾華語で句頭に「啊」と表記されるものの中には,感嘆詞の用例のみでは解釈しがたいもの,すなわち規範的とされる用法から逸脱するものが存在する。その発音は多く[aʔ](-ah)と発音されること,ならびに台湾という地域における言語環境の歴史的な経緯から閩南語の影響を受けたものと推測し,閩南語の「啊」に関する先行研究を整理した。その結果,先行研究では閩南方言を母語のひとつとする地域において使われる標準中国語を「地方普通話」として部類した上で,それは規範的とされる中国語の習得途中で形成された一種の中間言語であると見做す。つまり,本稿で扱った台湾華語における句頭語気助詞「啊」を含む方言要素は,基本的に転移の結果であることが先行研究からの大まかな見解であった。一方で行政院主計総処(2010)の統計を前提として,台湾人口の約8 割にあたる人が家庭内で閩南語,あるいは閩南語ともうひとつの言語として台湾華語を使っていることを考慮すると,一概に習得途中において形成された一種の中間言語として台湾華語を位置づけ,その中で句頭語気助詞「啊」を単なる転移の結果とするのは,今後も引続き議論が必要であることを本稿は指摘した。
著者
先川 暢郎
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
no.144, pp.97-127, 2021-03-25

本論はラフカディオ・ハーンの霊魂観を彼の作品に頻出する「蜃気楼」という現象をキーワードとして,仏教や西欧神秘哲学やスペンサー哲学を参考にしつつ考察しようとする試みであるが,ここには必然的に「神と人」,「人と宇宙」,「人と時間」という壮大なテーマがかかわってくる。ハーンが青年期を過ごしたアメリカは,キリスト教主流派教会の衰退に呼応して,東洋思想と心霊主義ルネサンスともいうべき新たな思潮が押し寄せていた時代で,ハーンも当然ながらそれらの影響を受けて来日したわけである。しかしながら,ハーンの日本体験は書物によらず,生の人間と自然との直接的交流に裏打ちされた体験であり,その結果の霊魂観,神観,時間論は既成の思想・信仰の二番煎じではない。ハーンの鋭い直覚から生まれた思想は飽くまでハーン独自の思想であり,反面,そこにはニューエイジ・サイエンスや現代の先端量子論の先取りとも思われる斬新ささえ見られるのである。我々はハーンの思想の淵源を追うというよりは,時代がやっとハーンに追いつきつつある事実を前に,彼の慧眼に驚嘆せざるをえない。
著者
小林 孝郎
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.144, pp.79-96, 2021-03-25

「待遇性接頭辞」の「お」と「ご」とその使い分け方法については,従来から問題点の存在が指摘されてきた。おおかたの研究の示すところは,その使い分けの要諦を「お,ご」に後接する語彙情報に拠るとするもの(「語種原則」)であったが,そこで生じる問題として「お,ご」と後接する語種とのミスマッチをどのように説明するかという点があった。本稿はこれに対して,「お+漢語」「ご+和語」の問題を含めて研究史を概観し,学術的にも日本語教育分野においても「語種原則」が浸透している現状について考察した。次に,「語種原則」に代わる可能性を持つ新たな説明項を模索する研究潮流について論じた。そして,それらの説明項(本稿では「解釈要素」とした)を初級日本語教育に応用することが可能かどうかを日本語教科書の「漢語語彙」を実際に検証することで考察した。
著者
狩野 紀子
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.61-80, 2019-03-29

近年,アカデミック・ライティングやリサーチペーパーの執筆指導を英語の授業で実践している大学は少なくない。執筆するためには,英語論文を読んで理解することがまず必要であるが,論文読解指導に関する調査・研究は少なく,教科書や指導書の数も限られている。そこで本研究では,英語を専攻する学生を対象に,英語論文の構成や頻出する表現を中心に,論文の読解方略を指導・訓練した。1 学期間の指導の結果,論文構成の理解を基に行うscanning力には伸長が認められた。また,特に指導はしていないが,論文中に頻出する「論文に関する用語」や「統計に関する用語」の理解にも進歩がみられた。それに対し,重要情報である研究の目的,方法,結果の精読に関しては,限られた効果しか認められなかった。短期間の指導で,学生はある程度は英語論文を理解できるようになるが,複雑な構造の文の理解や概念の理解には,さらなる指導が必要となることが示唆された。
著者
松下 直弘
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.219-235, 2019-03-29

日本語の「着物」は,スペイン語でkimono あるいはquimono と表記される。さまざまな文献からそれぞれの頻度数を比べてみると,どちらかに極端に偏ることなく,両者とも使われていることがわかる。スペイン王立アカデミーは長年quimono の方が好ましいとしてきたが,21 世紀に入ると,kimono の方が望ましいとし,quimono という表記も可とする方針を打ち出した。これ以降,スペイン王立アカデミー監修のスペイン語辞書をはじめ,いくつもの辞書がkimono の項で語義を載せるようになった。だが,相変わらずquimonoという表記はよく用いられている。外来語として意識されるkimono に対し,すっかりスペイン語の一部となったquimono が用いられるのは好ましい現象ではないだろうか。
著者
村上 祥子
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.193-217, 2019-03-29

法師の呪術は共同研究テーマの中で,呪いあるいは迷信の範疇としてとらえることができる。法師が実際の現場で行う呪術とは経文と設経であり,どのように祭祀を行うのか,経文にはどのようなものがあり,どのような効果を持つのか,どのように唱えられているのか,また祭場を飾る設経とは,具体的にどのようなものかを現場の調査を踏まえて考察した。法師の出現は古く高麗時代の盲僧に連なる存在であるといわれ,現在は目がみえる法師により継承されている。韓国で一般的に行われる巫堂による祭祀は,歌と舞により 請神 ⇒ 娯神 ⇒ 送神の構造で行われ,現世の招福を願うものである。それに対し,法師の祭祀は,経文を唱えることと,設経という祭場に取り付ける紙を切った造形により 請神 ⇒ 脅神 ⇒ 送神を行うことで,厄災を払い招福を願うことである。その構造に大きな違いがある。また巫堂は降神巫と世襲巫に分けることができるが,法師は学習によりその技術を修得することから学習巫として理解されている。法師の経文や設経は口承が主であり,師匠によりそれぞれの特徴を有しており,一貫性はない。法師の祭祀は現在では座経といわれるが,実際に行われる経文についてその性質を概観した。また設経は三か所に天禁・内禁・外禁と称され取り付けられる。各設経の意味と,目的をその造形を通して考察した。目には見えない法師の呪術は,耳を通して経文として,目を通して設経としてその効果を発揮するものである。
著者
阿久津 智
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
no.140, pp.1-34, 2019-03-29

古典読解に係り結びを生かす方法を考えるため,『土佐日記』に係り結び(係助詞)がどのように現れているかを調べた。とくに,地の文における,「強意」を表す係助詞「ぞ」,「なむ」を含む係り結びの用法を探った。その結果,「ぞ」と「なむ」には,ともに,係助詞の用法として,⑴限定・対比・排他的な意味を表す用法(卓立強調),⑵感情の焦点を表す用法(情緒的な強調)が見られたほか,係り結びの談話的な機能として,⑶話に区切りをつける用法が見られた。このうちの⑶などは,文章構成を把握するのに役に立つものであり,古典の読解に活用できるものと思われる。
著者
坂田 貞二
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
no.139, pp.29-50, 2018-12

Rām carit mānas or The Lake of Rama's Deeds is a Rama Story sung by Tulsīdās of the 16th century in Hindi language. This Rama story is still sung and dramatized in North India on various occasions including the commemoration of Rama's birth day.Rama was born as an incarnation of God Vishnu[I-201]. But responding to the wish of his mother, he also showed himself as a normal human baby[I-202].In this paper, the portions including curses and prophecies/dreams are shown first, and then the roles they play in the work are examined.Curses are often removed by the mercy of Rama: Ahalya was cursed by her learned husband and changed into a stone, but when she touched the feet of merciful Rama, she regained the human form [I-210]. Prophecies will bring the story ahead as expected: Trijata serving the demon Ravana told Sita in prison about the dream she saw, and Rama came to rescue her soon[V-11-1, V-12-1]. We observe here the dreams come true as the prophecies.
著者
阿久津 智
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.123-147, 2018-02-20

「母音」と「子音」とは,vowel,consonantの翻訳語として,明治元年ごろから使われ出した和製漢語のようである。「母音」が日本文典・英文典(洋文典)の両者で使われた語であるのに対し,「子音」は,当初,主に英文典で使われた語であった。日本文典では,明治中期~後期に,「父音」が多く使われた。江戸時代には,洋学を中心に,母音を表すのに,「韻字」,「母韻」,「韻母」,「音母」,「母字」などが使われ,子音を表すのに,「父字」,「子韻」,「子字」などが使われた。この「父・母・子」は,反切用語から来たもののようである。「音節」は,本来「ふしまわしやリズム」という意味の語であったが,1900年ごろからsyllableの翻訳語として使われるようになった。それ以前は,日本文典では,「子音」,「子韻」,「複音」,「単音」など,音(構造)に関する名称が主に使われ,英文典では,「連綴」,「綴字」,「綴音」など,つづりに関する名称が主に使われた(「熟音」は両者で使われた)。この両者における名称の違いは,日本文典と英文典における関心の違い(日本文典における五十音,英語における正書法)を示すものだと思われる。
著者
坂田 貞二
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.149-171, 2018-02-20

Among many festivals celebrated by the Hindus in North India, this paper describes only five of them mainly dedicated to the Goddesses in this manner: the days and the ways they are celebrated, the stories on their origin and the songs sung on the day. The five are as follows: ・Gangaur, in which the wives pray to Gan and his wife Gaur for the long lives of their husbands.・Śītalāstomī, in which the ladies pray to the goddess of smallpox Śītalā not to attack their family members.・Vat Sāvitrī, in which the wives pray to the Goddess and pious wife Sāvitrī for the healthy life of their husbands.・Dīwālī, in which men and women invite the Goddess of wealth Laksmī to their homes.・Holī, in which men and women invite Holikā, the Goddess of spring/new year.On the occasions of these festivals goddesses living in the heaven come down to the earth and meet human beings. Thus, Hindu Festivals dedicated to the Goddesses provide excellent occasions for human beings to come closer to the heavenly Goddesses.
著者
柴田 惠美
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
no.145, pp.31-55, 2021-10-29

能という日本独自の文化表象に,憐憫というキリスト教的概念が内包される可能性を示した論考である。能『恋重荷』の主人公,悪霊となって皇妃を責め苛んでいた荘司が,僧侶の調伏の場面もなく一転して皇妃の守護神へと変身する唐突とも言える劇展開は,中世に発達した神仏習合思想及び菩薩信仰によって論理的に解釈する事が可能である。それはまず,「苦しむ神」荘司と,人間としての業の深さと救われなさという現実を直視した皇妃両者の心に抱える「苦しみ」を通して彼らが心身共に一体化するという考え方を前提とするが,一体化する事で荘司の思いが成就し,妄執から解き放たれた彼がより高い仏性を感得し,結果として皇妃を見守る守護神へと変身したとする捉え方である。そして次に,皇妃の心に宿った憐憫の情,慈悲の心に菩薩性が宿り,その菩薩性に触れた荘司が慈悲と祈りによって救済され,最終的には彼自身が菩薩となって皇妃の守護神になるという考え方である。一方,劇展開における荘司と皇妃の内面の変化は,ベルクソンの説く人格的傾動・人格的ないし利己主義的情念,または共感的ないし愛他主義的傾動によって説明されうる。共感的ないし愛他主義的傾動には憐憫(pitié)の作用が係るが,このpitiéというキリスト教用語が示す概念と,少なくとも『恋重荷』で読み取れる憐憫や慈悲という仏教的観念は,魂救済への切実な祈りが内包されるという点において,ほぼ同義のものであると言えよう。
著者
永江 貴子
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
vol.143, pp.25-41, 2020-10-30

中国語の“给”は受益者を導くと規定され,この“给”に関する先行研究が多数報告されてきた。近年,この“给”が用いられる受益者を導く位置で,“帮”を用いる例が散見される。この“帮”の振る舞いを注視すると,従来の「助ける」という意味からやや離れた例が散見される。本稿では,この“帮”が有する意味的特徴に着目し,ポライトネスを示す例,近年におけるこの例の拡がり,更に従来の意味からやや逸脱した例を提示し,ポライトネスを意図する場面で何故多く観察されるのかに関し,そのメカニズムを述べる。