著者
梅田 康夫
出版者
Japan Legal History Association
雑誌
法制史研究 (ISSN:04412508)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.1-37,en3, 2017-03-30 (Released:2023-01-13)

平安期において弘仁年間より保元の乱に至るまで、三百年以上にわたり正式な形で死刑が行なわれなかった。このことは古くから知られ、これまで各種の文献で取り上げられてきた。本稿ではまず前提となる問題として、死刑の廃止ではなく停止であること、そして停止の時期やその実態について確認した上で、そのような現象がもたらされた背景、原因について論じ、死刑停止の歴史的意義を究明せんとした。 これまで死刑停止の背景、原因については、様々なことが指摘されてきた。それらはいずれもその要因の一つであると考えられる。なかでもとりわけ怨霊の問題が最も重要視され、筆者自身もかつてそのように考えてきた。しかしながら、非業の死とは結びつかない犯行の明白な一般庶民による凶悪な犯罪についても死刑執行が宥恕される事例が存在することは、怨霊恐怖の点からだけでは十分に説明できない。また死刑が復活したことについてその理由等は従来あまり論じられず、それ以降も公家社会では死刑は基本的に忌避されていたとする見解さえ存在する。本稿では、死刑復活後は公家社会でも死刑が行なわれたということを前提として、死刑が復活した際における後白河天皇宣命案に関する分析等から穢の問題を最も重視し、この問題を穢を媒介として天皇と朝廷のあり方、王権の変容との関連から考察した。 保元の乱後に出された後白河天皇宣命案は、従来からも取り上げられてきた史料である。本稿では、乱の経緯とその後の処置について神前に報告するのが、死穢すなわち死の穢によって延滞したとある部分に特に注目した。死刑の執行によって、穢が重要な問題となっていたことがわかる。穢は九世紀半ば以降に制度化され、それは天皇が祭祀王として純化されていく過程と並行していた。天皇による死刑の裁可は死穢の忌避という点から次第に行なわれなくなり、また死刑の執行は觸穢による宮中・内裏への波及を防ぐ意味で回避されるようになった。 このようにして全く行なわれなくなった死刑が復活したのは、保元の乱という内乱の後であった。そこには単なる武家の台頭ということのみならず、朝廷と天皇をめぐる公家社会における大きな変化があった。祭祀王としての天皇の純化が完成した段階で院政という新たな政治形態が確立し、世俗王としての院=上皇が治天の君としての権力を行使することになった。そして、穢の観念が世俗化、希薄化し拡散していく中で、死刑への忌避感情もまたかつてのように厳格なものではなくなっていった。その結果、天皇の清浄性を保持しつつ、院=上皇による刑政への関与、死刑の裁可という途が開けていった。 死刑の停止は「薬子の変」、その復活は保元の乱という、いずれも上皇と天皇の対立、王権の分裂を契機に進行した。それは王権の変容過程の中で生起した、特殊な現象であったといえる。