著者
水上 忠夫 千葉 勝衛
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所
雑誌
神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 = Historical Changes in Deep-Sea Fishing Practices in Kesennuma-Oshima, Miyagi Prefecture -A study of historical materials rescued from the Great East Japan Earthquake
巻号頁・発行日
vol.27, pp.63-123, 2019-02-28

機械船の運航には、「船舶職員法」に基づく船長・機関長が必要とされるようになり、その養成のため、大正初年から講習会が行われるようになってきた。当時、漁業組合長を兼務していた菅原熊治郎村長は大島の若い船員たちに受講を奨め、受講生に漁業組合から30円の助成金を支給することとした。その結果、応募者が多く定員オーバーで断られるほどであった。講習後に行われる資格試験でも、多数の合格者が出て、知識・技能と資格を有した船長・機関長が多く出るようになった。このように、大島の若い船員たちは早くから資格試験を目指して講習会に参加したり、航海中も独学で学習して学力と実力を伸ばし、難関の試験に合格して、多くの幹部職員が巣立っていった。 昭和初期には難関とされた、甲種船長や機関長に3 人も合格し、誠実で勤勉な大島船員の名声が全国的に知られるようになっていった。こうした伝統は戦後にも継承され、甲種船長、機関長を含む多くの漁労長・船長・機関長を輩出し、全国各地の船で活躍するようになったのである。 こうして苦労して取得した若い幹部船員たちは、ある日突然、徴用令状が届き、操業を中断して本土防衛の任に就いたのである。無防備に等しい徴用船が、敵機や潜水艦の攻撃を受けると敢然として戦い、「我敵ニ突入ヲ決行ス、天皇陛下万歳」と打電して、散華した徴用船もあった。 大島では太平洋戦争の戦死者は、陸海軍々人104名に対して、徴用船軍属の戦死者は111名と軍人よりも多い数となっている。これらの戦死者の中には、未だに乗船した船名や戦死場所なども不明の人も多い。 今回、徴用船の調査にあたっては、「国立公文書館アジア歴史資料センター」のデジタルアーカイブを利用し、国立公文書館・外務省外交史料館・防衛省防衛研究所の公開資料を閲覧した。また、「公益財団法人日本殉職船員顕彰会」を訪問し、貴重な資料の提供を受け、当地方関係船の行動の一部を解明することができた。この資料の中には当時、軍の機密とされた情報や、生々しい徴用船の戦闘詳報なども含まれていて、知られざる徴用船の実態を伝える貴重な資料となっている。