著者
呉座 勇一
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所
雑誌
神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 = Maritime History of Kumano : A Comprehensive Study of Koyama Family Papers
巻号頁・発行日
vol.29, pp.115-129, 2021-03-26

色川文書は、那智山西方の山間部の色川郷(現在の和歌山県那智勝浦町色川地区)を拠点とした熊野水軍色川氏に関わる計八通の文書群である。近代から現代にかけて、色川文書の中で最も注目されてきたのは、忠義王発給文書である。忠義王は長禄の変によって吉野で命を落とした南朝の末裔とみなされ、彼の発給文書は貴重・稀少な後南朝文書として関心を集めてきた。一方で同文書は、様式の不自然さから、後世の偽作ではないかと疑われてもきた。本稿では、真偽に関する議論には深入りせず、同文書が近世の地域社会においてどのように受容されたか、また近世の後南朝史研究でいかに扱われたかを解明した。 同文書を後世の偽作と仮定すると、その作成者は忠義王を長禄の変の被害者と認識していなかったと考えられる。後南朝の嫡流とされる自天王の文書ではなく、彼の弟とされる忠義王の文書が作られた不自然さは、文書作成時には忠義王が弟宮と位置づけられていなかったと想定することで解消される。 また奥吉野には南朝関連史跡は存在したが、江戸前期には後南朝関連史跡は未成立で、忠義王の名を知る人もいなかった。吉野に忠義王文書が残っていないのは、このためである。 ところが『大日本史』編纂のための水戸藩の史料採訪が、熊野に残る忠義王文書と、かつて吉野で起こった長禄の変を結びつけた。吉野郡川上郷では自天王・忠義王の位牌が作られ、長禄の変で命を落とした二皇子として両人の名前が川上郷で浸透していく。南朝関連史跡は後南朝関連史跡へと改変された。川上郷が両人に関わる由緒書や旧記を多数作成して先祖の後南朝への忠節を喧伝した結果、後南朝伝説は外部に拡散されていった。これらの伝説は国学者が編んだ後南朝史に採り入れられることで信頼性と権威を獲得し、近代以降の後南朝研究の前提となった。
著者
鈴木 江津子 Suzuki Etsuko
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所
巻号頁・発行日
pp.137-156, 2016-11-30

本稿は、筆写稿本「二神漁業協同組合文書」と写真集「二神漁業協同組合文書」(常民研による現地調査撮影本)を主軸に、戦後実施された二神島の漁業制度改革について書き上げたものである。筆写稿本「二神漁業協同組合文書」は、一九五〇年代初頭、水産庁の委託により財団法人時代の日本常民文化研究所が全国の漁村史料を収集したときに作成されたものである。記録によると、愛媛県の漁業史料の採訪は昭和二六年に実施されている。当時借用の「二神漁業協同組合文書」については、筆写が行われ、終了したものは所蔵者に返却された。現在は、原史料の筆写稿本のみが国立研究開発法人水産総合研究センター中央水産研究所図書資料館と神奈川大学日本常民文化研究所の双方に架蔵されている。 漁業制度の改革は「漁業法」と「漁業組合法」の二つの法律の制定が企図され、まず、昭和二三年「水産業協同組合法」が制定され、翌二四年「新漁業法」が制定された。この戦後の改革によって、明治末期以来続いてきた旧来の漁業制度が廃止され、漁場における基本的秩序が改められた。漁協の性格も大きく改変され前進した。二神島においても、戦時統制下の漁業会は解散され、その施設や資金は新しく設立された二神漁業協同組合へと引継がれた。戦後の制度改革によって、漁業権の再分配という大きな目標は成し遂げられ、漁業協同組合が漁業権の主体となることが実現した。 二神漁業組合が制度的に成立したのは、明治三六年と記録されている。この後、昭和一〇年に、保証責任二神漁業協同組合に組織設定され、平成一一年には、二神・怒和島・津和地が合併して、中島三和漁業協同組合二神支所となり現在も存続している。漁業制度の改革によって、漁業や漁業組合が近代化へと進行していった意義について、未だ、現地に残存している古文書の調査も含め、更なる探求が今後の課題となろう。
著者
弓倉 弘年
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所
雑誌
神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 = Maritime History of Kumano : A Comprehensive Study of Koyama Family Papers
巻号頁・発行日
vol.29, pp.105-114, 2021-03-26

中世、熊野水軍は海を舞台に活発に活動したが、その範囲は国内に留まらず、中国大陸にまで及んだことで知られている。このような熊野水軍=紀南の水軍領主が、南北朝から戦国期にかけて、室町幕府や守護とどのような関係を結び、どのように活動していたのかを検討した。 南北朝の初め、紀南の水軍領主の多くは、南朝に与して活動していた。これは、南北朝動乱の初期に、太平洋の交通路を南朝方が掌握していたからと見られる。室町幕府が各地の南朝勢力を追討するとともに、紀南の水軍領主も幕府方につく者が多くなっていく。ただし、一部は南北朝の動乱が終わっても、室町幕府に従わなかった。そのような中で、安宅氏・周参見氏は幕府直属の国人となったが、小山氏は守護被官の国人となった。これは、室町幕府に帰参した時期が左右していると見られる。 十五世紀になると、紀南の水軍領主は幕府・守護体制下で自由な活動は見られなくなる。十五世紀半ば以降、守護畠山氏の家督紛争が激化すると、小山氏・安宅氏等紀南の水軍領主は、正守護の下で活動することが多かった。しかし、明応の政変で将軍権力が分裂すると、それぞれの立場で活動するようになったが、幕府・守護体制の枠組みから外れるものではなかった。 十六世紀後半になると、守護関係の文書が「小山家文書」でほとんど見られなくなった。これは室町幕府が中絶することが影響していると見られる。この頃から熊野水軍の自由な活動が見られるようになり、一部は関東の後北条氏の家臣となっている。紀南の水軍領主は、南北朝期からの水軍としての本質を保ちながら、戦国期を迎えたのであった。
著者
水上 忠夫 千葉 勝衛
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所
雑誌
神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 = Historical Changes in Deep-Sea Fishing Practices in Kesennuma-Oshima, Miyagi Prefecture -A study of historical materials rescued from the Great East Japan Earthquake
巻号頁・発行日
vol.27, pp.63-123, 2019-02-28

機械船の運航には、「船舶職員法」に基づく船長・機関長が必要とされるようになり、その養成のため、大正初年から講習会が行われるようになってきた。当時、漁業組合長を兼務していた菅原熊治郎村長は大島の若い船員たちに受講を奨め、受講生に漁業組合から30円の助成金を支給することとした。その結果、応募者が多く定員オーバーで断られるほどであった。講習後に行われる資格試験でも、多数の合格者が出て、知識・技能と資格を有した船長・機関長が多く出るようになった。このように、大島の若い船員たちは早くから資格試験を目指して講習会に参加したり、航海中も独学で学習して学力と実力を伸ばし、難関の試験に合格して、多くの幹部職員が巣立っていった。 昭和初期には難関とされた、甲種船長や機関長に3 人も合格し、誠実で勤勉な大島船員の名声が全国的に知られるようになっていった。こうした伝統は戦後にも継承され、甲種船長、機関長を含む多くの漁労長・船長・機関長を輩出し、全国各地の船で活躍するようになったのである。 こうして苦労して取得した若い幹部船員たちは、ある日突然、徴用令状が届き、操業を中断して本土防衛の任に就いたのである。無防備に等しい徴用船が、敵機や潜水艦の攻撃を受けると敢然として戦い、「我敵ニ突入ヲ決行ス、天皇陛下万歳」と打電して、散華した徴用船もあった。 大島では太平洋戦争の戦死者は、陸海軍々人104名に対して、徴用船軍属の戦死者は111名と軍人よりも多い数となっている。これらの戦死者の中には、未だに乗船した船名や戦死場所なども不明の人も多い。 今回、徴用船の調査にあたっては、「国立公文書館アジア歴史資料センター」のデジタルアーカイブを利用し、国立公文書館・外務省外交史料館・防衛省防衛研究所の公開資料を閲覧した。また、「公益財団法人日本殉職船員顕彰会」を訪問し、貴重な資料の提供を受け、当地方関係船の行動の一部を解明することができた。この資料の中には当時、軍の機密とされた情報や、生々しい徴用船の戦闘詳報なども含まれていて、知られざる徴用船の実態を伝える貴重な資料となっている。