著者
兼松 満造 木部 久衛 関川 堅 野村 晋一 沢崎 坦 清水 吉平 大神田 昭雄 瀬野尾 有司
出版者
日本草地学会
雑誌
日本草地学会誌 (ISSN:04475933)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.56-75, 1968-04-20

山岳の多いわが国では,新たな草地開発はこれらの山岳地帯にその多くを求めなければならない。古くからの慣習の牧野でも標高2,000mぐらいまでは利用されてきている。長野・山梨県下では近年標高1,000〜2,000mの高海抜山岳地帯に近代的な草地の開発・改良が,国の奨励助長策の下に逐次進められつつある。米国ではコロラド州など7,000feet前後の高地もひろく家畜が放牧され,南米アンデスの高地帯やスイスの山岳放牧はより一層の高海抜地で行なわれている。とくに夏季に集中する降雨と急傾斜地の多いことなど外国とそれとは異なった自然条件下にあるわが国の山岳地帯でも,古くからの経験の上に森林の撫育とも併せて,土壌と水の保全に十分留意すれば,標高2,000mぐらいまでの草地の開発と利用は,積極的に推進すべきであろう。わが国の高海抜地帯とみられるこれらの山岳地帯は,冬期間の長さと凛烈な寒気を除けば,むしろ寒さによく耐えるわが国の乳牛,肉牛,緬羊にとって,夏季の高温の強い感作から免れることと,その多くが北方系に属する既導入牧草類の春から秋へかけての生育の季節変動が低暖地に比べて小さいことからも有利な点が多く,このような背景から高層草地は高く評価されるべきであると考える。そこでこれらの高海抜山岳地帯の草地とそこでの放牧家畜について,野外の生態学的ならびに生理学的調査を行なうこととし,草地と放牧家畜との対応関係についての基礎的知見を求め,この種地帯における草地の利用と放牧家畜の管理技術の改善に役立つことを目的としてこの研究を行なった。調査研究の対象草地の概要は表1のとおりである。これら3草地のほか,心拍数の計測と気象要因と泌乳量の変動に関する調査のため信州大学附属農場(標高770m)および東京大学附属牧場繋養のホルスタイン種の泌乳牛,心拍数の計測と行動調査のため扉牧場の牛群が夏季放牧される鉢伏牧場(標高1,800〜1,900m)も調査の対象とした。1.上記3草地は豪雪地帯を除くわが国の中部山岳地帯の気象を代表するhomo-climatic zoneにあるということができよう。すなわち調査の結果では年平均気温6〜8℃,年降雨量1,400〜1,600mm,気圧823〜890mbで,夏季最高気温が28℃を越えることは稀であり,一方冬期の最低気温は往々-15℃以下となる。気温較差が年間を通じて大きく,相対湿度は年間を通じて高く65%以上で,降雨量は5,6,7および9月に多く,11〜4月の間に少ない。8月はやや乾燥気味で草の生長がやや停滞する。冬期の寒気はきびしいが,積雪量が1mを越えることは稀であった。なお年間を通じて晴天の日は紫外線量が大きく,6,7および8月に濃霧や驟雨が多い。2.このような気象環境のもとで,草地植生の質と量の季節的変動は,低暖地にみられるような夏季の高温障害の度合は著しく軽減され,適切な放牧管理のもとでは,放牧期間を通じてとくに質的に高い水準を維持している。このことは牧草草地で一層顕著であるが,自然草地でも秋の後半の急激な質的低下を除けば同じような傾向であった。冬期における扉牧場の笹葉は夏季に比べてやや劣るが,なお比較的高い質的水準(C.P.10%以上)を示した。3.霧ケ峯牧場野草と扉牧場の笹葉刈取り試料の分析の結果,微量元素はいずれも低い値(Co-0.16,Cu-1.4〜7.6,Zn-18.1〜30.8ppm)を示した。しかし霧ケ峯牧場で隣接した同じ土壌で石灰および燐酸を多投し,かつN,PおよびK肥料を施用して造成した牧草地の刈取り試料は前者の約倍量(Co-0.33〜0.39,Cu-11.9〜14.0,Zn-47.8〜68.8ppm)の微量元素を含むことが明らかとなった。なおこの傾向はMoについても同様であった。4.標示物質法による扉牧場およびキープ農場での7回の放牧採食量の調査で,前者の昼間放牧では充分採食されていないこと,一方優良な牧草草地であるキープ農場の全放牧では満足すべき採食量を示した。5.なお放牧採食量と草の質と行動形の調査から算出したrt/gt値の間には,草生密度がとくに低くない限り,明らかに相関関係のあることが認められた。6.放牧行動形の連続調査の結果,乳牛群のそれぞれ異なる行動形の遷移は,それぞれの草地ごとにおおむね一定のパターンを示し,個体調査の成績もこれと同調した。いずれの場合でも,盛夏の候ですら放牧採食形は昼間に強く反覆していること,夜間に強い反芻形が集中することが観察された。なお放牧乳牛群の日間の遷移は律動的であったが,気候条件の急変とくに降雨,降雪が,このリズムを撹乱する要因であることが明らかとなった。7.上に述べた採食量と放牧行動形の調査成績から,放牧用諸施設のうち牧柵,門扉および牧道の整備が,管理労力の節減とも関連し,放牧草地のより効率的な利用のための制御を容易かつ確実ならしめるため極めて重要であることが示唆された。8.放牧草地の植生の質と量ならびに草地土壌の性質に対応する放牧牛の血液性状の季節的調査の結果,とくに自然草地である霧ケ峯牧場と扉牧場では,主として冬期の良質粗飼料の不足に基因すると考えられる血糖値の低下(平均値霧ケ峯-5頭-26.5mg/dl,扉牧場-12頭-28.0mg/dl)が認められ,さらに前者では血中βカロチン含量の著しい低下(平均207μg/dl,最低値60μg/dl)が冬の末期にみられたことは,両牧場の冬期間の良質粗飼料確保の重要性を示すものであろう。なお笹の純植生地たる扉牧場の放牧牛群は蛋白質,カロリー源の摂取不足は霧ケ峯牧場の場合と同様であるが,冬期にも積雪下でなお緑色を保つ笹葉の摂取が,血中のβカロチン含量のかなり高い水準(14頭の平均413μg/dl)を示していることから,わが国に多い笹の冬期飼料としての価値は高く評価されるべきであろう。9.放牧飼育牛の心機能についての一部の基礎知見を得るため,野村が創案したビート・メーターを牛体に装着して,放牧行動形別のできるだけ多くの個体について数多くの計測を行なったが,その結果,心拍数の個体差が大きいこと,しかし行動形別の心拍数は,個体ごとに休息形から放牧採食形へと(より大きい運動量の行動形へと)規則正しい増加を示すこと,各放牧行動形間の心拍数の変動の幅がジヤージー種牛がホルスタイン種牛に比べて狭かったことが認められた。これらの知見は牛の放牧飼育(育成-とくに高海抜草地)の意義と,放牧のため余分に必要とするカロリー推計への道を招くものであろう。10.低地から上記の高海抜草地に移動した乳牛は,ジャージー種牛,ホルスタイン種牛ともに高地到達時から数か月の間,赤血球数の明らかな増加を示したが,おおむね8〜12か月後には正常値となることが認められた。このことはこの程度の高地には乳牛は生理的によく適応し得ることを示唆するものと考えられる。11.同じく心機能に関して,高層草地に馴化したとみられるキープ農場のジャージー種泌乳牛32頭および信州大学附属農場のホルスタイン種泌乳牛12頭について行なった心電図検査の結果,注目すべき所見として,より高層のキープ農場の牛が信州大学附属農場の牛に比べ一般に高電位であり,とくに心電図のT波の電位がより高くQ-T間隔が長いことである。このような心電図所見の解釈についてはなお,今後の研究に待たなければならない。