著者
河崎 則秋
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.123-135, 2016

田上山は,滋賀県南部に位置する田上山系と金勝山系の山々の総称であり,一丈野国有林(大津市)と金勝山国有林(栗東市)は,この田上山に属し,水系は淀川流域の上流部になる。(図1,2)田上山は,「うっそうたる大森林」であったと奈良朝時代の古文書により推定されている。しかし,690年代に藤原宮の造営に要する木材の伐出や,740年代には石山院(現在の石山寺)造営に際し木材が伐出したとされ,そういった長期乱伐の結果,桃山時代(1600年頃)には既に荒廃の一歩手前にあり,江戸期(1640年頃)に入ると燃料としての盗掘や戦禍による焼失を重ねた結果,荒廃が進行したうえに,地質が風化の進んだ花崗岩であったことから,降雨のたびに土砂流出が発生して下流の人々を苦しめてきた。荒涼とした山は,その姿から「田上のはげ」として全国に知られることとなった。慶長13年(1608年),17年(1612年),19年(1614年)に淀川流域一帯に大水害が発生し,承応2年(1653年)には,野洲川が決壊し約50町歩の田畑が荒地となった。幕府は万治3年(1660年)に,大和,伊賀,山城の国に対し「木根掘取禁止,禿山に苗木植付,土砂留の施工」を命じている。寛文の時代に入り,2年(1662年)と5年(1665年)には栗太郡も災害を受け,翌6年(1666年)には幕府が「諸国山川の掟」を発令し,草木の根を掘り取ることを停止し,川上の樹木なき所に苗木を植付,焼畑および河辺の開こんを禁止している。9年(1669年)に幕府は主要な役人に畿内の被災状況を実地検分させ,淀川の浚渫費を各大名に課している。翌10年(1670年)には瀬田川の浚渫が施工されている。このように江戸時代は治山治水対策が組織的な事業として行われたが,安永・天明年間(1772年~1788年)の飢饉等で農村が不況に陥って以降,幕府の監督体制もゆるみ,設計・施工技術の低下をはじめ,山腹工事の施工自体が衰退した。当時の主な工種は,山腹工では,鎧留(別添図1),築留(図2),石垣留(図3),石篭留(蛇篭留)(図4),井堰留(図5),掻上堤工(図6),杭柵留(図7),逆松留(図8),蒔わら工(葺わら留)(図9),筋粗朶工(図10),雑木苗植込,筋芝植込(図11),飛芝植込(図12),飛松留(図13),実蒔留など,渓間工では,鎧留,築留,石垣留(図14),砂留(図15,16),流路工などである。江戸時代最後(慶応4年)の淀川大水害に見舞われた明治政府は,淀川の船運確保対策を考え,木津川の付替工事を始めるとともに,土砂留調査に着手し,治水(船運)のためには,山林の整理に併せて砂防(治山)事業の緊急性を痛感した。なお,森林の所有については,明治2年(1869年)に官林制度が定まり,翌3年(1870年)には社寺有林の上地命令がなされており,大津国有林の母体(所有形態)が形成されたと思われる。ただし,管理は県に委託されている。明治4年(1871年)になり,政府は5畿内(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国)および伊賀国に対し「砂防5カ条」を布達し,木津川水源土砂留工事費を当分官費をもって支払う旨を通告している。翌5年(1872年)には,施行対象地として,大戸川,草津川及び野洲川の水源禿赭地(はげ山)と記録され,工事費は全額国費で賄われた。明治29年(1896年),河川法が制定され,翌30年(1897年)には,森林法及び砂防法が制定され,国有林野事業として治山事業が開始された。