著者
清水 俊史
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1158-1162, 2013-03-25

本稿は,有部と上座部との資料を検討し,阿羅漢の造業の問題について考察した.阿羅漢は,すべての煩悩を断っているのであるから悪心を起こさず,人殺しや盗みをして悪業をつくることはない.しかし,阿羅漢は善業をなすことがあるのだろうか.仮にもし,「人助け」や「社会貢献」を阿羅漢がなした場合,これらの行いは仏道修行とは無関係の世俗的な善業(すなわち福徳)であるから,輪廻しない阿羅漢にも来世の生存を生みだすという問題に陥ってしまう.このような「もはや輪廻しないはずの阿羅漢であっても,新たに業を積むのか」という問題が,有部および上座部の資料に現れている.この問題に対し両部派は,次のように全く異なる見解を示している.上座部は,阿羅漢になった者はもはや業をさらにつくることはないと解釈している.しかしこれは,仏道修行とは無関係の世俗的に「よい」とされる行為を,阿羅漢が全くなさないという意味ではない.そのような場合,阿羅漢には善心ではなく,阿羅漢のみに起こる唯作(kiriya)という特殊な無記心が起きており,その心がそのような世俗的な行為を成立させていると解釈する.一方の有部は,阿羅漢となった者も業をつくることがあると解釈している.すなわち,仏道修行とは無関係の世俗的に「よい」とされる行為をなす場合,阿羅漢にも三界繋有漏心が起こり,それらは善業になる.しかしこの阿羅漢の善業は,阿羅漢の最後生で異熟を受ければ済むもので,来世を導く能力はないものにしかならないと解釈されている.阿毘達磨の法相は一見無味乾燥としているが,このような具体的な問題にも回答しうるよう厳密に定義されていることがわかる.