著者
嵯峨山 積 越田 賢一郎 渡井 瞳
出版者
一般社団法人 日本地質学会
雑誌
日本地質学会学術大会講演要旨 第129年学術大会(2022東京・早稲田) (ISSN:13483935)
巻号頁・発行日
pp.247, 2022 (Released:2023-04-03)

日本海に面する石狩平野は,石狩低地と長沼低地に細分され,そこには多くの人々が生活している.一方,同平野には縄文時代以前からの遺跡が多数存在し,縄文人の生活の場でもあった. 遺跡群の分布は約11,000年前までの旧石器時代から縄文時代草創期,約11,000~7,000年前の縄文早期,約7,000~5,000年前の縄文前期,約5,000~4,000年前の縄文中期,約4,000~3,000年前の縄文後期,約3,000~2,400年前の縄文晩期,約2,400~1,300年前の続縄文文化期,約1,300~800年前の擦文文化期に区分される. 約1万年以降の海面変化は,約7,000年前を高頂期とする縄文海進と,その後の海退へて現海面高に至っている(遠藤,2015など).赤松(1972)によれば石狩平野の縄文海進高頂期の海面高は標高約3 mとされ,日本海側から内陸に流入した海水は,石狩川や夕張川,千歳川などの淡水に希釈され,広大な汽水湖(古石狩湖)が形成されたと考えられる.その規模は東西約40 km,南北約30 kmで,現在の海岸線から約38 km離れた長沼町南長沼まで同湖が広がっていたことが珪藻分析により明らかされている(嵯峨山ほか,2013;嵯峨山,2022).現海岸線と平行に発達する紅葉山砂丘の下位には砂礫層が分布し(小山内ほか,1956),同層は高頂期における古石狩湖と外洋を隔てる砂堤であったとされている(松下,1979). 旧石器時代の海面は標高約−40 m以下であり,海岸線は現在より遠く沖合側に位置していたと考えられる.次に,縄文早期では海面は急速に上昇し,同期の終わりである約7,000年前は高頂期に相当し,上に述べた大規模な汽水湖が形成されていった.その後の縄文前期や縄文中期では海面は徐々に低下し,最終的に現海面高に至っている. 海面変化と遺跡群の分布を,特に日本海に面する臨海域に注目して検討すると,縄文早期の遺跡群は比較的内陸に位置し,現海岸線付近には存在しない.次の縄文前期になると,2つの遺跡が紅葉山砂丘上に認められる.海退期に当たるこの時期には,紅葉山砂丘が砂堤上に形成されており,これらのことに時代的矛盾はない.縄文中期になると,遺跡は更に現海岸線近くに存在し,更に海岸線が海側に後退したことを示している.縄文後期では,遺跡の位置は縄文中期とほぼ同じで,縄文晩期ではより海岸線付近にいくつかの遺跡が認められる. この様に,臨海域の遺跡群の分布は海面変化と矛盾なく説明できる.なお,内陸の長沼低地における古石狩湖の形成や広がりと遺跡群の分布については,特にボーリングによる解析結果が少なく,十分な検討には至っていない.今後の課題である.<文献>赤松守雄,1972,石狩川河口付近の自然貝殻層.地質学雑誌,78,275-276. 遠藤邦彦,2015,日本の沖積層-未来と過去を結ぶ最新の地層-.冨山房インターナショナル,415 p. 松下勝秀,1979,石狩海岸平野における埋没地形と上部更新統~完新統について.第四紀研究,18,69-78. 小山内 熙・杉本良也・北川芳男,1956,5万分の1地質図幅「札幌」及び同説明書.北海道立地下資源調査所,64 p. 嵯峨山 積,2022,石狩低地帯の成り立ち:地形と地質.北海道自然保護協会,北海道の自然,60,3-10. 嵯峨山 積・藤原与志樹・井島行夫・岡村 聡・山田悟郎・外崎徳二,2013,北海道石狩平野の沖積層層序と特徴的な2層準の対比.北海道地質研究所報告,85,1-11.