著者
田井中 雅人
出版者
科学技術社会論学会
雑誌
科学技術社会論研究 (ISSN:13475843)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.57-70, 2022-07-10 (Released:2023-07-10)
参考文献数
34

『放射線被曝の歴史』を著した神戸大教授・中川保雄(1943-91)は,広島・長崎への原爆攻撃による「効果」を調査したアメリカ軍合同調査委員会と原爆傷害調査委員会(ABCC)が,爆心地から2キロ以遠の様々な症例を被曝の急性症状から切り捨てるなど,恣意的な基準をつくって放射線被害の過小評価を定着させたことを突き止め,それはアメリカの原爆投下を正当化するためだったと論じた. 「マンハッタン計画」にあたった科学者たちは,「耐容線量」に替えて「許容線量」の概念を打ち出し,遺伝学者の懸念や世界的な反核世論を抑え込んだ. 放射線被曝防護をめぐる「国際的基準」について,中川は「核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が,それを強制される側に,ヒバクがやむをえないもので,我慢して受忍すべきものと思わせるために,科学的装いを凝らして作った社会的基準であり,原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政的手段なのである」と看破していた.福島原発事故後もそうした基準の押しつけが続いており,中川の研究の今日的意義が再評価されるべきである.