著者
福山 民夫
出版者
麻布大学
巻号頁・発行日
1976-06-21

地球上に棲息する蛇の種類は,およそ2,800種とされこのうち約400種が毒蛇であるが,実際に人畜に被害を与えるのは150種あまりである。世界におけるこれらの毒蛇による咬症患者の正確な数字を把握することは,極めて困難であるが,WHOの統計によると年間の死亡者数は30,000~40,000人にのぼるものと推定されている。この大部分(25,000~30,000人)は東南アジアにおけるものであり,中でもインド,パキスタン,ビルマ地方に多い。コブラは東南アジア,中近東,アフリカに亘る広い地域に分布しており,沢井等による東南アジア諸国に事ける蛇咬症の調査研究においても,最も高い致命率を示すのはコブラ咬症患者であり,治療血清の注射を受ける以前に死亡する者の多いことが報告され,予防接種の必要性が指摘されている。コブラ咬症の臨床症状及び毒の毒性について簡単に述べると,受傷後の比較的早期にねむけ,言語障害,えん下困難,流誕,意識障害,呼吸困難等の神経麻痺性の全身症状が主徴としてあらわれることが特徴で,嘔気,嘔吐,腹痛などを伴うこともあり,激烈な症例では受傷後1時間以内に死亡することもある。このようにコブラ毒は神経毒ではあるが,多くの咬症患者の受傷局所には限局性の壊死がみられ,中には機能障害を残した症例も報告されている。コブラ毒には壊死因子も存在することが知られている。以上のごとくコブラ咬症における症状は,神経麻痺と局所壊死である。今までにも高力価の治療用抗毒素血清をつくる目的で,馬の免疫を行なうために種々なコブラ毒のトキソイド化の研究が行なわれてきたが,その無毒化や免疫原性に関しては一様に満足すべき成績は得られなかった。特に無毒化剤としてホルマリンを用いた場合には,コブラ毒の無毒化は非常に困難であり『ホルマリンでは無毒化されない』とまで言われ,且つその免疫原性も弱いことなどから,ホルマリンによるトキソイド化は不可能であると思われていた。またこれらの研究においては,トキソイドの無毒化試験や免疫原性については,コブラ毒の毒性のうち致死についてのみ検討され,壊^(え)死については全く調べられていなかった。しかし壊死活性も見逃すことができない重要な因子であるので,トキソイド化の研究で最も重視される毒の無毒化においては,致死のみならず壊死因子も充分にその毒性を失活させなければならない。またトキソイド接種による免疫の効果については,コブラ毒の強い致死作用を防御することが第一に要求される最も重要なことではあるが同時に局所の壊死も防御できることが望ましい。しかしながらこれまで,コブラ毒による局所病変に注目した研究報告は少なく,それも筋肉内注射によるもので咬症患者に見られるものとは全く異なったものであった。このような理由から壊死について検討を加えるためには,まず適当な実験方法を開発する必要がある。著者はこのような観点から,咬症患者に見られるものと同様な病変をウサギやモルモットに再現すべく研究を試みたところ,後に述べるようにその方法を見出すことができた。 そこで今回は実験動物に作られた局所壊死の性状について詳しく検討を加え,且つ人体接種が可能なタイワンコブラ毒トキソイドを試作するため,ホルマリンによる無毒化の条件及びその致死あるいは局所の壊死に対する抗原性について検討した結果,確実に無毒化され,しかも優れた免疫原性を有するなど,人体に応用することが期待できるトキソイドを作ることに成功し,かつこの研究にかかわる一連の実験から2,3の新知見を得たので以下これらの概要について述べる。1)タイワンコブラ毒による致死及び局所壊死に関する実験成績 マウスを用いて50%致死量及び最小致死量の粗毒を筋肉内,腹腔内及び静脈内にそれぞれ注射し,その生死を経時的に観察した結果,静脈内あるいは腹腔内に注射した動物のうち死亡したマウスは全て毒の注射後2時間以内であった。また筋肉内注射によるものでは大部分が2時間以内に死亡したが,4時間程度生き延びたものも若干認められた。ここで発症はしていても,この時間を耐過したマウスはその後症状は漸次消退して元気に生存する現象が観察された。このようにコブラ毒を注射された動物の生死は注射経路や毒量の相違にはあまりかかわらずに,毒の注入後短時間内に決定されることが明らかなった。 次に筋肉内注射及び皮内注射の二つの方法を用いて,注射経路による局所壊死の差異について検討を行なった。筋肉内注射を行なった場合には,外部からの観察では皮膚表面の変化は全く認められなかったが,皮内注射では皮膚表面に注射部位を中心として,円形に近い健康部との境界が明瞭な壊死が認められた。この病変は臨床報告例や沢井らによる調査研究で観察された咬毎患者にみられる壊死と酷似していた。コブラ粗毒300mcgをウサギの背部皮内に注射して24時間目の局所病変を病理組織学的に観察したところ,表皮は萎縮して皮下に好中球の限局的滲出がみられた。また皮下は一般に水腫性で皮下筋層の融解壊死が認められた。このような組織学的変化は,200mcgをモルモットの皮内に注射してから2時間後の比較的早期の病変においても同様であった。これらの組織にはいずれも出血は全く認められなかった。種々な毒量をウサギやモルモットの皮肉に注射して,その大きさを経時的に測定した成績においても,注射後1~2時間で形成ざれた壊死は,時間が経過してもその大きさはあまり変らない傾向がみられ,局所の壊死は毒の注入後の早い時期に形成されることが明らかにされた。またこのような組織の障害は,タイワンコブラ毒の主要な致死活性物質として精製されたコプロトキシンでは全く観察されなかった。以上のようにコブラ咬症患者にみられる局所壊死と酷似した壊死を毒の皮内注射法により,実験動物に容易につくることができ,その性状を明らかにすることができた。そこで今までのコブラ毒のトキソイド化の研究においては,無毒化試験やトキソイドの免疫原性に関する試験はいずれも致死毒性についてのみ追究されてきたが,本報においては壊死毒性についても検討が加えられた。2)タイワンコブラ毒の無毒化に関する実験成績 ここではタイワンコブラの粗毒を用い,毒濃度を1%としてホルマリンによる無毒化の条件について検討した。毒溶液に0.4%にホルマリンを加え,pH7.0で37℃において無毒化した場合は,7日目には完全に無毒化したが,0.2%ではやや遅れ14日目であった。また0.1%以下では無毒化されなかった。次に0.2%のホルマリンを含む毒溶液のpHを変えて行なった実験について述べると,溶液のpHが8.0のアルカリ側では5日目でその毒性は完全に失なわれたが,pHが7.0では14日目でもまだ若干の毒性が残されており,21日目で無毒化された。これに対してpHが5.0,6.0の酸性側では,ホルマリンを添加した当初にやや毒性の低下がみられたにすぎず,5週後でも無毒化されなかった。しかしながらこのような場合でも,ホルマリン濃度を高くすれば無毒化を促進させることができた。すなわちpH6.0の毒溶液にホルマリンを0.8%に添加すると,5週後には無毒化されたが,0.4%の濃度ではまだかなりの毒性が残されていた。このようにタイワンコブラ毒をホルマリンで処理する場合には,粗毒溶液のpHとホルマリンの濃度が相互に密接な役割を演じ,溶液のpHあるいはホルマリンの濃度が高いほど,無毒化の時間が短かくなることが明らかにされた。しかしいずれの場合でも無毒化の途中で,その溶液中に多量の白色の沈殿物があらわれることが特徴的であったが,コブロトキシソではこのような沈澱物が生じないことから,粗毒によって生ずる沈澱物は,致死因子とは無関係なものと思われた。一方ではコブラ毒には致死以外に壊死を起す因子も含まれていることから,毒素の一部に変性をもたらすような無毒化の方法は,これらの免疫原性をできるだけ損なわないためにも避けた方がよい。そこで蛋白保護剤として各種のアミノ酸すなわちグリシン,グルタミン酸,アラニン,アルギニン,リジン等について検討した。1%の粗毒溶液にアミノ酸を0.05Mに加え,毒溶液のpHを6.5としホルマリンを0.2%ずつ4~5日間隔で徐々に加え,37℃において無毒化したところ,リジン塩酸塩またはアルギニンを含む溶液には沈降物は全く出現しなかったが,その他のアミノ酸を加えたものには,無添加の対照と同様に多量の粗い沈澱物が形成された。 次にリジン塩酸塩を0.05Mの濃度に含む1%粗毒溶液に最初0.2%にホルマリンを加え,以後5日間隔で3回添加して,溶液のpHを6.5に保ちながら37℃で無毒化したところ,壊死活性は13日目で消失し,致死活性も20日目には完全に不活化された。従来タイワンコブラ毒のホルマリンによる無毒化は,非常に困難であるとされていたが,無毒化の条件について種々検討した結果,比較的緩和な条件のもとでも,致死因子のみならず壊死因子も確実に再現性よく無毒化することができた。3)コブラ毒ホルマリントキソイドの免疫原性に関する実験成績 タイワンコブラ粗毒をホルマリン処理すると多量の沈降物が生ずるが,コブロトキシンではあらわれないことから,致死因子の主要な免疫原は上清に存在することが示唆された。そこでこの沈澱及び上清部分を免疫原としてモルモットに接種し,両分画の免疫原性の比較を試みたところ,上清を注射したモルモットが沈澱を免疫原としたものに比較して血中抗毒素価も高く,直接毒の攻撃に対してもよりよい致死防御や延命効果を示した。しかしながら沈澱物で免疫したモルモット群も無処理対照群に比較して救命効果や延命効果が認められ,若干の免疫原は沈澱分画にも移行していることが示された。 次にアミノ酸を添加して沈澱の形成を防いだ粗毒及び精製毒トキソイドの免疫原性について検討した。精製は硫安分画法で行なった結果精製毒の比活性は4.6倍に上昇した。そこで1%の粗毒及び0.5%の精製毒溶液をつくり,それぞれの毒液に0.05Mにリジン塩酸塩を加え,さらにホルマリンを0.2%ずつ4~6日間隔で5回添加し,pHを6.5に保ちながら無毒化して沈澱のない透明なトキソイドを得た。そこで1回の接種量を2mgと定め,3週間隔で4回ウサギの皮下に注射した。両トキソイドの免疫群の血中抗致死価の平均値を血清0.4mlが中和した毒量であらわすと粗毒トキソイドは23.3mcg(3.3MLD)であったが,精製毒トキソイド免疫群では42.5mcg(6.1MLD)で前者に比して約1.8倍高い抗体価を示した。次に粗毒及び精製毒トキソイド群の中から比較的高い血中抗毒素価を示したウサギを,それぞれ2匹ずつ選び,抗壊死価の測定を行なったが,いずれのウサギからも壊死中和抗体は検出されなかった。次にこれらのウサギに1.8㎎から最高14mgの粗毒を筋肉内に注射し致死防御効果を観察したが,全てのウサギは生残った。これに対して1.3㎎の毒を注射した対照のウサギは全部死亡した。このように優れた致死防御能を示したウサギも,毒の直接皮内への攻撃に対しては壊死の発生を防ぐことはできなかった。 これまで述べた免疫原性に関する実験においてはいずれも初回接種時にフロイント・アジュバンドを用いたが,ここでは沈降トキソイドの免疫原性について述べる。1%粗毒溶液にリジン塩酸塩を加え,前に述べたと同様な条件で無毒化したトキソイド溶液に,塩化アルミニウム及びリン酸ナトリウムを加えて1ml中に2mgのコブラ毒と1mgのアルミニウムを含む沈降トキソイドを作製した。1回の接種量を2mg,1mg,0.5mgと定め,1群7羽のウサギに3週間隔で4回皮下注射して,血中の抗毒素価を調べた。その抗体価は,血清1mgが原毒を中和する致死活性であらわすと,その平均値はそれぞれ10.8,10.4,5.2LD_50の毒力を中和した。またこれらのウサギに直接2mg~16mgの粗毒を筋肉内に攻撃して,致死防御ならびに延命効果などを観察すると同時に,血中抗体価とこれらとの関連について検討したところ,血清1mlが5LD_50の毒力を中和すればそのウサギは2~4mgの攻撃に耐え,また血清が10LD_50を中和した場合には,4MLDに相当する8mgの毒の攻撃にも耐えることが明らかにされ,優れた致死防御と延命効果が観察された。 以上のようにコブラ咬症による死亡や局所の壊死を最小限に留めるための予防を目的として,タイワンコブラ毒トキソイドを開発すべく実験を行なった結果,本研究によりはじめて人体接種が可能なトキソイドを得ることができた。 またこの研究を進める過程で明らかにされた主な新知見を説明すれば次のように要約することができる。(1) タイワンコブラ毒のホルマリンによる無毒化では,毒素溶液のpHやホルマリンの濃度が,重要な役割を演じていることを明らかにすることができた。(2) 粗毒をホルマリンで無毒化する場合には,その毒性が完全に失われるまでにその溶液中に多量の沈降物を生ずるのが常であったが,タイワンコブラ毒の致子因子であるコブロトキシン溶液には現れないこと,またこのような沈降物はリジンあるいはアルギニンを添加することにより防止することができることを明らかにした。(3) 粗毒溶液中にリジン塩酸塩を加え,37℃で,pHを6.5に保ちつつ,ホルマリンを0.2%ずつ4~6日間隔で添加し,徐々に増量するなど比較的緩和な条件の下でトキソイド化を行なっても,致死,壊死の両因子とも確実に無毒化できることを実証し,その免疫原性も高いことから,タイワンコブラ毒ホルモールトキソイドを得るための,トキソイド化の一つの方法を提示することができた。(4) 直接毒の攻撃に対して,致死防御に必要な免疫動物の血中抗毒素価を知ることができた。(5) タイワンコブラ毒の致死作用の特徴を明らかにした。(6) コブラ咬症患者にみられる壊死と酷似した壊死をウサギやモルモット等の実験動物に容易に作る方法を見出し,今までほとんど知られていなかった局所壊死の特徴を明らかにすることができた。 特に局所壊死に関する実験方法を開発したことにより,この面での研究が大いに進展することが期待される。一方では優れた免疫原性を保持するトキソイドが作られたことにより,高単位の治療用抗血清を得るための馬の免疫が容易に行なわれるばかりでなく,将来トキソイドの人体接種が有望である。これらのことから,本研究はタイワンコブラのみならず,他のコブラ咬症の治療や予防の前進に大きく貢献するものと信じる。