著者
赤羽 律
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.1229-1236, 2012-03-25 (Released:2017-09-01)

中観派という呼称は仏教を少しでも齧ったことのある人ならば誰でも知っているといってよいほど広く知られた名称である.しかし,元々サンスクリット語でMadhyamikaと呼ばれ,直訳としては「中」という意味にしかならない名称が,何故「観」の字を加えられた「中観」という呼称として翻訳されたのかについては定かではない.本稿で明らかにしようと試みたのは,まさにこの点である.中観という呼称を学派名称として初めて用いたのは義浄であるとこれまで考えられてきた.しかしこの呼称そのものは決して義浄が独自に生み出したものではない.義浄以前に,中国における中観派系統の学派である三論宗の実質的な開祖である吉蔵が,Nagarjunaの『中論』を註釈した際に,そのタイトルを『中観論疏』とし,『中論』を『中観論』と呼んだことに由来すると考えられる.この『中観論』という呼称が7世紀半以降,中国を中心に広く知られていたことは明らかであり,インドに渡る以前の義浄が知っていたと十分に考えられる.それ故に,インドにおいてNagarjunaの思想に基づく学派としてMadhyamikaという呼称を耳にした義浄の脳裏に,Nagarjunaの最も重要な論書である『中論』即ち『中観論』という名称が浮かび,それを学派名称に転用したとしても何ら不思議はないであろう.また「観」の字を加えた理由は定かではないが,吉蔵の『中観論』という名称に関する注釈に従うならば,『中論』の各章に「観」の字が付けられていることに基づいたためではないかと推察される.何れにせよ,義浄以前の7世紀に活躍し,インドの仏教事情に詳しい玄奘や,630年代初頭に『般若灯論』の翻訳を行ったインド人Prabhakaramitraといった著名な仏教僧たちが何れも,中観派という呼称を用いていないことから,恐らくこの用語を学派名称として初めて用いた人物が義浄であると想定するのが現段階では妥当であろう.
著者
赤羽 律
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.1217-1224, 2014-03-25 (Released:2017-09-01)
被引用文献数
1

Bhaviveka (ca. 490/500-570)によって,Nagarjuna (ca. 150-250)の『根本中論』(Mulamadhyamakakarika)に対する注釈書として書かれたPrajnapradipaは,サンスクリット原典が散逸し,今日我々が目にすることができるのはチベット語訳と漢訳『般若灯論』のみである.しかし,月輪賢隆氏によって漢訳の不備が指摘されて以来,漢訳は殆ど研究対象として扱われてこなかった.本稿では,月輪氏の指摘を紹介するとともに,第8章の議論の一部を採りあげ,漢訳とチベット語訳の対比を元に,月輪氏の指摘を確認しつつも,漢訳が必ずしも不備ばかりでないことを示す.また,『根本中論』の偈を推論式に構成して注釈する際に,チベット語訳に於いて見出される推論式構成要素の説明部分が一貫して漢訳『般若灯論』に欠落している特徴を指摘し,漢訳とチベット語訳それぞれの元になったサンスクリット原本にそもそも差があった可能性を提示する.加えて,反論と答論が示され,その反論の一部が漢訳に見出されない場合,その見出されない反論部分に対する答論部分もまた綺麗に欠落していることがしばしば見出されることから,仮に両訳の元となったサンスクリット原本が同一であり,漢訳者が議論を一部省略したと想定するとしても,翻訳者Prabhakaramitraが議論を踏まえた上で省略した可能性が高いことを明らかにした.