- 著者
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都倉 武之
- 出版者
- 慶應義塾福澤研究センター
- 雑誌
- 近代日本研究 (ISSN:09114181)
- 巻号頁・発行日
- no.22, pp.341-354, 2005
福沢諭吉関係新資料紹介外務省外交史料館所蔵「韓国皇族義和宮及同国人李竣鋳等動静取調一件」と題する簿冊に、福沢諭吉書簡が二通収められている。そのうち一通は下書きも現存し、朝鮮国宮内府大臣宛書簡案文(一八九七〔明治三〇〕年五月二〇日付)として既に『福沢諭吉書簡集』第八巻に収められているが、もう一通は今回初めて紹介されるものである。これらの書簡は簿冊の表題にもある通り、朝鮮(九七年一〇月に大韓帝国と改称) の王族(同じく皇族と改称) 「義和宮」の動静に関するものである。「義和宮」という人物の略歴を示せば左の通りである。一八七七年三月生まれ。高宗国王の第五子で、側室張氏を母とし、名を李鋼という。九一年、義和君(日本では義和宮)に封じられ、一九〇〇年には義王(義親王)に昇封された。韓国併合後は、公族に列せられて「李燗公殿下」と称されたが、李太王が亡くなると、独立運動団体「大同団」の総裁に挙げられて密かに活動し、一九年一〇月上海臨時政府への参加を企てて満州安東で日本警察に拘束された(大同団事件)。三〇年六月には隠居させられ単に「李姻殿下」と呼ばれ、警察の監視下で生活したという。五五年八月、ソウルにおいて七十八歳で死去。生涯で十三男九女をもうけた。なお、上の兄が純宗として高宗の跡を継ぎ、子がなかったが、その後継者とされたのは李綱ではなく、弟の李根(英親王) であった。これは、青年期の素行に由来するとも宮中の勢力争いに由来するとも言われる。本稿では彼のことを「義和宮」と呼ぶこととしたい。福沢書簡は、二通とも九七年五月のものであるが、このとき義和宮は日本留学中であった。しかしそもそも同宮が日本に留学していた事実自体が欠落している歴史書も多く、複雑な政治状況の中で表舞台から追われていく義和宮の動向は、ほとんど明らかとなっていないのが現状である。福沢諭吉との関係も、十分な研究は行われていない。同宮が九五年一一月に来日した時、福沢は、時あたかも李朝政府との契約によって朝鮮人留学生を慶應義塾に多数受け入れていた。そのことが接点となって、同宮の世話にも手を貸すこととなり、のちには国王より同宮の監督を委託されることとなったものと思われ、それは同宮が米国に留学する九七年五月まで続いた。したがって、両者の関係を明らかにすることは、福沢の晩年における朝鮮問題への関与を明らかにする上で、重要な意味を持つものなのである。本稿は、義和宮の来日から米国留学に至る動きを可能な限り明らかにし、それらと福沢の関係について若干の考察を加えるものである。