著者
釋 覺瑋
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.1148-1154, 2015

ブッダの誕生記念祭は,多くの仏教的祝祭の中でも最重要の祝祭の一つである.本論文は,外来宗教としての仏教が中国に受容された後に,主要な祝祭である仏誕祭が,いかにして国家的な認知を得るに至ったかを,今からおよそ1500年前の北魏時代と現代台湾における事例を比較しながら考察する.記録によれば,後漢時代に仏教が中国に伝わってからおよそ500年,6世紀初めの北魏では,陰暦4月8日,皇帝や多くの市民が,それぞれに仏像を安置した1000台の車列をもって仏誕祭パレードを行ったという.一方,台湾において仏教が広く知られるようになるのは17世紀の清朝においてであり,さらにまた仏教が台湾に根づくのは,多くの僧侶や僧尼が中国の東海岸から移り住むようになる1945年以後のことである.21世紀の台湾では,大統領府の前で10万人規模の仏誕記念式典が開かれることにもなった.相互に1500年の隔たりをもちながらも,いずれの祝祭も外来宗教としての仏教を受容し,ブッダの誕生を公共の空間において祝う祭典として文化史的,社会的,および政治的に重要な意味をもつことを具体例に即して考察した.
著者
釋 覺瑋
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.1303-1309, 2016
被引用文献数
1

臨済義玄(?-866)と仏光星雲(1927-)は生まれた時期こそ千年以上離れているものの,二人とも彼らが暮らしていた社会に対して禅の教えを創造的に適用した.それは,人々が自らの人間性を発見し,現状を超越することへの一助とするためである.この二人の禅師は,様々な迫害を乗り越えただけでなく,先達の教えを作り変えることによって,その時代の社会・政治的な環境に新たな価値を付与し,当時用いられていた一般的な言葉を創造的に使い,彼等の信仰をさらなる高みへと引き上げた.中国禅の流派を形成した菩提達磨(5-6世紀頃)は『二入四行論』の中で,すべての衆生に等しく備わっている「本性」が存在していること(理入)と,菩薩がいかに日常生活において法に従いつつ六波羅蜜の実践が可能かということ(行入の四つの修行の一つ)を強調している.臨済義玄がこうした教えを適用したのは,四万以上の仏教施設が破壊され,二十六万人以上の僧侶が還俗を余儀なくされた会昌の廃仏後(845年頃)という惨憺たる時期であった.このような大規模な破壊-経典や信仰上価値のあるものを含む-と周辺地域での抵抗運動が続く中で,義玄は菩提達磨の法による「行入」に倣い,彼に付き随う人々を激励した.人生に起こった出来事をそのまま受け入れ,「あるべき」理想の人生と「いまこの」現実の人生の間に存在する緊張から解放したのである.達磨の「理入」と同じく,義玄は仏性を表す道教の用語「無位の真人⊥すなわちシンプルで自然な人間に戻ることを提唱した.この溌刺としてダイナミックな「真人」は,何物にも執着しないが故に,仏教徒はこうした超越的な解放(解脱)の状態を望むべきであり,不運な状況がふりかかろうとも抵抗しない,というのである.仏光星雲は臨済禅の系統に列なる人であり,「人間の生活の中の仏教」という太虚(1890-1947)の教えに影響を受けている.太虚は,制度や教育,社会の改善を通じて,広く仏教を活性化するよう呼びかけた人である.台湾の人々が急激な経済成長に自らをあわせ,儒教的な原理と資本主義的民主主義とのバランスを取るのに苦心している中で,星雲は太虚の活動を人道主義的な仏教へと転換したのである.星雲は法に従いつつ葬式仏教や伝統仏教を近代化した.それは仏教徒が,成長を続ける台湾の経済に生産的な面で貢献しながら,文化的,教育的,慈善的,修養的活動を通して,社会から疎外されている人を癒し,人々の連帯意識を生み出すためである.彼は智慧とユーモアと慈悲をもって,現代社会の厳しさとめまぐるしい変動に対応するために,禅のもつ解放的な性格を強調した.星雲は弟子達に,自らが仏である(理入)ということを主張するように勧めた.彼は,人々が自信を回復し,世界は縁起(空)から成り立っていると認識させることで,心の平静を取り戻させた.この二人の禅師は,人々が暮らす状況を十分に意識したうえで,彼等が理解できる言葉を使って,人々の自らに対する信頼を回復させ,社会の安定と成長に貢献した.精彩を放つ禅仏教の精神は,社会の利益と復旧に巧みに使われたのである.