- 著者
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坂元 真舟
鎌田 瑞葉
野口 愛天
- 出版者
- 日本地球惑星科学連合
- 雑誌
- 日本地球惑星科学連合2019年大会
- 巻号頁・発行日
- 2019-03-14
「弘前藩庁日記」からみた江戸時代の飢饉の要因研究の動機古文書の日付に添えられた天気に着目をして、一昨々年から江戸時代に記された4つの古文書を使って気象の分析をしてきました。今年は「弘前藩庁日記」を分析しました。「弘前藩庁日記」は、今の青森県にあった弘前藩が書き残した毎日の日記で、1661年から1868年までの日本で最古の公的な記録です。研究の目的過年度に調べた古文書のデータと合わせて、データベースを作ります。江戸時代の飢饉を起こした原因を探ります。研究の方法天気は現代の気象庁の判断に近づけて、雪>雨>曇>晴れと分類しました。ただし、24時間のうち、9割以上曇っていれば「曇り」、9割(21.6時間)未満であれば「晴れ」と、雲量を時間に換算して判断しました。天気以外の気象情報「雷」、「風」、「冷・涼」などの言葉も数えました。取得したデータは164年間で、58,781日でした。データ①1701年から1864年までの晴れと雨の出現率をみると、宝暦の飢饉の期間の晴れの出現率が急激に下がります。東北地方に冷害が発生した飢饉だと言われます。天保の飢饉の原因は大雨、洪水と、それに伴う冷夏だったと言われます。グラフのように雨の出現率が高く、日照時間が低下し飢饉につながったと考えられます。雪の出現率は1768年が最低で9.3%、最高は1706年の29.9%です。1706年には浅間山が噴火しています。 他の古文書との比較はデータ①-2のとおりでした。データ②1701年から1864年までの年間の雷の記録を調べました。1787年は天明の飢饉の年でデータ④からみても「やませ」の影響が見られることから、日本海低気圧とオホーツク海高気圧の影響が強かった年だと考えられます。データ③雷の季節ごとの割合を見ると、晴れの出現率が高い30年間の夏に「熱雷」が発生しています。天保の飢饉の30年は冬の雷の比率が高いので、シベリア寒気が優勢で冷たい空気が流れ込み雷が発生したと考えられます。データ④天明の飢饉のあった1776年から1789年の間に東よりの風、つまり、「やませ」と考えられる風の日数が多いです。「やませ」とは主に東北地方の太平洋側で春から6月〜8月の夏に吹く冷たく湿った東よりの風のことです。データ⑤弘前藩庁日記の6月から8月の夏の間の「冷たい」「涼しい」という記録を調べました。「冷」または「涼」と記されているのは1701年から1864年までの夏に459日ありました。1782年から1785年の間と1833年から1839年まで続いた天保の飢饉の期間に「冷たい」「涼しい」と書かれた日数が多いです。「寒い」という言葉は記録にありませんでした。天保の飢饉の原因は大雨、洪水と、それに伴う冷夏だったと言われ、グラフのように夏季の「冷たい」という記録が多く、冷夏を裏づけます。考察(1)享保の飢饉は西日本におけるウンカの発生と長雨であったと言われますが、青森ではこの影響が見られず、晴れの出現率は高いです。しかし、データ①から、宝暦の飢饉の期間だけは晴れの出現率が低下し、飢饉が発生したと考えられます。(2)データ②・④より、天明の飢饉の背景にはオホーツク海気団の影響で「やませ」が吹き、雷の発生数からみて寒冷前線が頻繁に通過した年でした。(3)データ①・③より、天保の飢饉の期間を含む30年が、雨の出現率が一番高く気温の低い時期だったと考えられます。特に冬はシベリア気団の影響を受けました。まとめ(1)享保の飢饉は西日本を中心とする飢饉だと言われ、30年間の晴れの出現率が高いことから、青森の気象の変動は少なかったと考えられます。(2)晴れの出現率が高い中で、宝暦の飢饉の5年間は日照時間の低下に加え、雷が多発していることから、上空に寒気が流入して、不安定な大気の日が多くなり飢饉につながりました。(3)天明の飢饉を含む期間はオホーツク海高気圧が発達して 「やませ」が発生し、夏季の気温が上がらなかったことが飢饉の原因だったと考えられます。(4)天保の飢饉を含む期間30年の雨の出現率が晴れの出現率を超えている。日照時間の低下で、気温も下がったことが飢饉を招きました。今後の課題 江戸時代の古文書、「盛岡藩家老席日記雑書」(岩手県)をデータ化して、東北地方の気象変動を調べ、今回の分析を裏づけます。