著者
箸野 照昌 田中 寿美玲 野口 愛天 峯元 愛 園中 智貴 徳田 佳秀 山畑 雅翔 内田 海聖 大城 新秀 畑島 康史 吉盛 巧人 園田 倭可 谷口 大介 兎澤 瑛太郎
雑誌
JpGU-AGU Joint Meeting 2020
巻号頁・発行日
2020-03-13

研究の動機 過去4年間「関口日記」「二條家内々御番所日次記」「妙法院日次記」「守屋舎人日帳」「弘前藩庁日記」に記述された天気を分析した。 そこで、今年は「鶴村日記」を分析した。「鶴村日記」とは、江戸時代の石川県の儒学者、金子鶴村が書き残した1801年(文化4年)から1838年(天保9年)までの災害、文化、生活等の記録である。 研究の目的(1)過年度に調べた「関口日記」「二條家内々御番所日次記」「妙法院日次記」「守屋舎人日帳」「弘前藩庁日記」と合わせてデータベースを作る。(2)インドネシアのタンボラ火山の1812年からの噴火の影響で「夏のない年」と言われた1816年と、天保の飢饉で一番被害が苛烈であった1836年を比較検証する。 研究の方法 天気は現在の気象庁の分類に近づけて、雪>雨>曇>晴れと判別した。1年の1/3の欠測のある年は集計から削除した。ただし、1836年を検討する際は、欠測のない5月~7月、及び9月のみデータを使った。 取得したデータは21年間で、7,148日だった。 データ1 鶴村日記の天気の全期間の出現率と、タンボラ火山の噴火を含む期間である1812年から1816年を算出した。火山の噴火期間は晴れの出現率が低下し、雨の出現率が上昇していることが分かった。 また、1836年の天保の大飢饉においてはさらに晴れの出現率が低下し、雨の出現率が大幅に増えたことが分かる。 データ2 1808~1832年の天気の出現率を季節ごとにグラフにすると、タンボラ火山の噴火の続く、夏の期間の雨の出現率が晴れの出現率を上回っていることがわかる。 データ3 4つの古文書で1816年と1836年の5月から9月の天気を比べると、7月の曇りの出現率が高いことが共通している。 1816年と1836年の違いは、1816年の8月の晴れの出現率の持ち直しが顕著である。 データ4 雷の発生率を四季でみると、1816年の夏の雷は前後の年に比べて減少している。一方、秋は1816年が一番高く、大陸からの季節風の影響の可能性が高い。 データ5 国立情報学研究所の市野美夏さんの論文を参考に天気階級と全天日射量を計算して比較した。市野さんの論文に倣い、日記天気階級は(1)晴れ、(2)曇り、(3)雨天・雪の3つに分類した。そして、現代の気象庁データの平均から得られた地上の全天日射量Qd、地理的データ及び天候から得られるQsを使い、qを求める。 qは地球上にそそぐ太陽のエネルギーの減衰する割合を表している。 求めたQsと天気階級の積を平均したものがQeである。このQeを平年値と比較する。 古文書の天候の情報から毎年の全天日射量に換算し、複数年で比較したのがグラフ6で、1816年、1836年のいずれも1821年から1850年の平均値より低い量になっている。つまり、この2年に関しては、年間通して、全天日射量が低く、寒い時期が続き、農作物などへの影響があったことが読み取れる。 考察(1)データ1のように、タンボラ火山の噴火活動期の1812年~1816年の晴れの出現率は36.12%で、全期間より1.88%低いことから、日照時間が低下し気温も低かった可能性がある。 さらに、データ2から、1816年は鶴村日記の夏から冬において、雨の出現率が晴れの出現率を上回る。夏や秋の気温が上昇しない年だったと考えられる。(2)天保の飢饉は特に東北の冷害が深刻だったとされるが、調査した古文書の緯度があがるにつれて1816年と1836年の晴れの出現率の差が大きいことがわかった。(3)鶴村日記において、 1821年から1850年までの全天日射量の平均と、1816年と1836年の夏の全天日射量を比較すると、両年とも通年で全天日射量が低いことから、気温も低下していたことを示唆する。 まとめ(1) 「鶴村日記」のタンボラ火山の噴火活動期の晴れの出現率は36.31%で、全期間より1.71%低く、日照時間が低下し気温も低下した可能性がある。(2) 天保の飢饉は特に東北の冷害が深刻だったとされるが、古文書の書かれた地点の緯度が上がるにつれて、1816年と1836年の晴れの出現率の差が大きくなっていく。(3)「鶴村日記」の全天日射量をみると、1816年、1836年のいずれも1821年から1850年の平均値より低い量になっていた。 つまり、この2年に関しては、年間通して、全天日射量が低く、寒い時期が続いたことがわかる。 今後の課題 「鯖江藩日記」(福井)をデータ化してデータベースを作り、気象変動を調べて、本年までの分析を裏づけるとともに、オリジナルな全天日射量の計算式を作り、江戸時代の日射量を算出する。
著者
坂元 真舟 鎌田 瑞葉 野口 愛天
出版者
日本地球惑星科学連合
雑誌
日本地球惑星科学連合2019年大会
巻号頁・発行日
2019-03-14

「弘前藩庁日記」からみた江戸時代の飢饉の要因研究の動機古文書の日付に添えられた天気に着目をして、一昨々年から江戸時代に記された4つの古文書を使って気象の分析をしてきました。今年は「弘前藩庁日記」を分析しました。「弘前藩庁日記」は、今の青森県にあった弘前藩が書き残した毎日の日記で、1661年から1868年までの日本で最古の公的な記録です。研究の目的過年度に調べた古文書のデータと合わせて、データベースを作ります。江戸時代の飢饉を起こした原因を探ります。研究の方法天気は現代の気象庁の判断に近づけて、雪>雨>曇>晴れと分類しました。ただし、24時間のうち、9割以上曇っていれば「曇り」、9割(21.6時間)未満であれば「晴れ」と、雲量を時間に換算して判断しました。天気以外の気象情報「雷」、「風」、「冷・涼」などの言葉も数えました。取得したデータは164年間で、58,781日でした。データ①1701年から1864年までの晴れと雨の出現率をみると、宝暦の飢饉の期間の晴れの出現率が急激に下がります。東北地方に冷害が発生した飢饉だと言われます。天保の飢饉の原因は大雨、洪水と、それに伴う冷夏だったと言われます。グラフのように雨の出現率が高く、日照時間が低下し飢饉につながったと考えられます。雪の出現率は1768年が最低で9.3%、最高は1706年の29.9%です。1706年には浅間山が噴火しています。 他の古文書との比較はデータ①-2のとおりでした。データ②1701年から1864年までの年間の雷の記録を調べました。1787年は天明の飢饉の年でデータ④からみても「やませ」の影響が見られることから、日本海低気圧とオホーツク海高気圧の影響が強かった年だと考えられます。データ③雷の季節ごとの割合を見ると、晴れの出現率が高い30年間の夏に「熱雷」が発生しています。天保の飢饉の30年は冬の雷の比率が高いので、シベリア寒気が優勢で冷たい空気が流れ込み雷が発生したと考えられます。データ④天明の飢饉のあった1776年から1789年の間に東よりの風、つまり、「やませ」と考えられる風の日数が多いです。「やませ」とは主に東北地方の太平洋側で春から6月〜8月の夏に吹く冷たく湿った東よりの風のことです。データ⑤弘前藩庁日記の6月から8月の夏の間の「冷たい」「涼しい」という記録を調べました。「冷」または「涼」と記されているのは1701年から1864年までの夏に459日ありました。1782年から1785年の間と1833年から1839年まで続いた天保の飢饉の期間に「冷たい」「涼しい」と書かれた日数が多いです。「寒い」という言葉は記録にありませんでした。天保の飢饉の原因は大雨、洪水と、それに伴う冷夏だったと言われ、グラフのように夏季の「冷たい」という記録が多く、冷夏を裏づけます。考察(1)享保の飢饉は西日本におけるウンカの発生と長雨であったと言われますが、青森ではこの影響が見られず、晴れの出現率は高いです。しかし、データ①から、宝暦の飢饉の期間だけは晴れの出現率が低下し、飢饉が発生したと考えられます。(2)データ②・④より、天明の飢饉の背景にはオホーツク海気団の影響で「やませ」が吹き、雷の発生数からみて寒冷前線が頻繁に通過した年でした。(3)データ①・③より、天保の飢饉の期間を含む30年が、雨の出現率が一番高く気温の低い時期だったと考えられます。特に冬はシベリア気団の影響を受けました。まとめ(1)享保の飢饉は西日本を中心とする飢饉だと言われ、30年間の晴れの出現率が高いことから、青森の気象の変動は少なかったと考えられます。(2)晴れの出現率が高い中で、宝暦の飢饉の5年間は日照時間の低下に加え、雷が多発していることから、上空に寒気が流入して、不安定な大気の日が多くなり飢饉につながりました。(3)天明の飢饉を含む期間はオホーツク海高気圧が発達して 「やませ」が発生し、夏季の気温が上がらなかったことが飢饉の原因だったと考えられます。(4)天保の飢饉を含む期間30年の雨の出現率が晴れの出現率を超えている。日照時間の低下で、気温も下がったことが飢饉を招きました。今後の課題 江戸時代の古文書、「盛岡藩家老席日記雑書」(岩手県)をデータ化して、東北地方の気象変動を調べ、今回の分析を裏づけます。