- 著者
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佐々木 隆爾
鍋本 由得
- 出版者
- 日本大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2001
(1)「大津絵節」は流行歌としての側面と,語り歌としての側面をあわせ持っている。この両側面を持ち,かつ大衆に新たな感興を呼び起こした歌は,清楽曲を全部または一部借用した歌であり,1830年代に流行し始めた。その端緒は「看々節」およびその原曲「九連環」である。「看々節」は江戸で禁止されるが,「九連環」は江戸・大坂・長崎等で愛好され続けた。清楽曲は,漢詩に節をつけた歌であることから,情報と感情の双方を伝達する手段として利用された。また「看々踊り」等が流行し,流行に拍車をかけた。このことは,19世紀前半から清楽譜が多様に出版された事実と,「甲子夜話」等の信頼性の高い記録から確認できる。(2)幕末の「大津絵節」の流行は,1853年7月に中村座で市川小団次が踊った狂言「連方便茲大津絵(つれかたよりここにおおつえ)」に端を発する。それにあやかって歌川国芳の風刺画が書かれ,それが大流行すると,その絵解き歌として「アメリカ大津絵節」も同時に流行し,それまで愛好されて来た「ヤンレ口説き節」を凌駕するようになった。このことは,安政(1855年)大地震を描いた「鯰絵」に多くの「大津絵節」が登場することで確認できる。(3)「アメリカ大津絵節」が自由民権期を含む1880年代にも強く愛好されたことは,梅田磯士『音楽早学び』(1888年)で確認され,これが民権運動期に運動鼓舞的な演歌として多大な役割を果たしたことは,福田英子『妾の半生涯』の記述から明らかである。福田の記述は,この歌におけるメロディーと歌詞の相互関係も示唆しており,歌詞にあわせて曲のどの部分が省略または反復されるかを推定する手がかりを与えている。(4)演歌としての「アメリカ大津絵節」の時代は長くは続かなかった模様で,この中のリズムが軽快な部分や沈鬱なメロディーの部分は,折から大流行を始めた浪花節の中に,それぞれ「早がけ」および「沈思」の表現法として吸収され,浪花節の表現力と伝播力を高めたものと推定される。