著者
長山 恵一
出版者
法政大学現代福祉学部現代福祉研究編集委員会
雑誌
現代福祉研究 (ISSN:13463349)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-67, 2016-03

ヴェーバーの支配の正当性と正当化についての諸家の議論を取り上げ、筆者のヴェーバーの社会科学的認識論や社会学的方法論に関する考察を踏まえて支配の二相性の問題を論じた。これまでヴェーバー支配論の議論が混乱していたのは、第一に支配論の鍵である「正当化」と「正当性」を明確に区別した議論がなされてこなかったこと、第二に秩序一般・規範一般の「正当性」や「正当化」に関する『Legitimitätの原初的形態』『Legitimationの原初的形態』と、法や支配に直結した『支配のLegitimität』『支配のLegitimation』の関係をどう捉えるか充分に詰めた議論がなされてこなかったこと、が原因している。その結果、水林彪と佐野誠の議論のすれ違いに見られるように①人間の内側(内面)から支えられている(義務付けられている)のはLegitimität なのか、それともLegitimieren・Legitimationの方か、②支配に関連して「正しさ」は関係するのかしないのか、といった問題を整合的に理解できなくなってしまった。ヴェーバー自身は「正当性」と「正当化」を異質なものと区別し、それらが異なる経験相に基づくことを明確に理解していた。しかし、彼の社会科学的認識論はあくまで伝統的な近代主義的「分析論理」に立脚したものであるために、ヴェーバーはせっかく〔現実理解/説明的理解〕という理解の二相性を提示しながら、前者の経験相は直感的で未分節・全体的な経験相であるために社会科学的な「妥当性(客観性)」を持ち得ないとして、それを括弧に括った形で認識論的な議論が展開されてしまった。社会科学的認識論におけるこうした問題はヴェーバーの社会学的方法論(行為論的社会学)にもそのまま引き継がれ、彼の社会学は未分節な洞察的経験や直感的経験にかかわる「変革」「創造」の問題を理論的にうまく位置づけられないまま奇妙な形で原理的な二面性を抱え込むこととなった。ジレンマに満ちたこうした二面性がそのまま支配の原理的説明に持ち込まれたのが「支配の正当性」と「支配の正当化」の問題である。本来、支配という現象は質的に異なる二相―「正当性」の表象にかかわる未分節で直感的な経験相(1種類 = カリスマ体験)と「正当化」にかかわる分節化された経験相(3種類=支配の三類型)の合計4つ―から構成されているが、ヴェーバーはそれを整合的に理論化することができなかった。このことはヴェーバー支配論に独特な二面性や理論的な揺れを引き起こす結果となった。それが①ヴェーバー晩年の講演に登場する「第四の正当性観念」や「反権主義的に解釈がえされたカリスマ(「支配の諸類型」に登場)」との関係にも表れているし、②『経済と社会』新稿の方法論的著作『社会学の基礎概念』では「秩序の正当性」が四つに類型化されて論じられているのに対して、支配論『支配の諸類型』の方は旧稿と同様に支配は3類型で論じられるという齟齬を生み出している。従来より『経済と社会』旧稿と新稿は質的方法論的に異なることが指摘されてきた。新稿は読者の分かりやすさを優先したために議論が平板になっているというのがこれまでの一般的な理解の仕方であった。しかし、これは完全に間違いである。『経済と社会』旧稿と新稿の違いはそうした便宜上の問題に由来するのではなく、支配の本質的な二相性をヴェーバーが統一的に理論化できなかったために、旧稿では支配を「正当化」の切り口から論じ、一方、新稿では支配を「正当性」の切り口から論じようとしたために起きた原理論的なズレが関係している。『経済と社会』旧稿に属するヴェーバー最晩年の『政治ゲマインシャフト』論が『支配社会学』とは相当に異質な内容になっていることも上記のような事情から整合的に説明できることを松井の論考を援用しつつ論じた。
著者
長山 恵一 Nagayama Keiichi
出版者
法政大学現代福祉学部現代福祉研究編集委員会
雑誌
現代福祉研究 (ISSN:13463349)
巻号頁・発行日
no.14, pp.11-41, 2014-03

ヴェーバーの支配論を『経済と社会』の「新稿」と「旧稿」を比較しつつ検証した。「新稿」の支配論では、上(支配者)から正当的秩序が下(被支配者大衆)に向けて流出論的に天下るように記述され、一方、下から上へのモーメントは「正当性信仰」という概念規定の曖昧な用語が使われている。新稿の支配論では上下双方の支配のモーメントがうまく結び付いた形で説明されておらず、そこに理論的な飛躍・解離が見られる点が従来から批判されてきた。それに対して、旧稿の支配論は諒解概念や「自己義認・自己正当化」論で論理が緻密に組み立てられていると考えられてきた。新稿と旧稿の支配論を検証した結果、ヴェーバーの支配論は上から下へのモーメント(イ)と下から上へのモーメント(ニ)という垂直のファクター(すなわち(イ / ニ))と、より水平的なモーメントで価値準拠的行為・慣習律にかかわる(ロ)と予想準拠的行為・利害得失にかかわるゲーム論的な(ハ)の水平のファクター(すなわち(ロ・ハ))の二つがあり、それが[イ /(ロ・ハ) / ニ]という形で、ヴェーバー支配論の全体を構成していることが分かった。ヴェーバーは人間の道具の使用にかかわる習熟・自動化の過程や道具の授与などをベースに支配という現象を説明しようとした。しかし、彼が諒解や授与で説明できているのは全体図の中の[イ / (ロ・ハ) / ★]の部分のみである。被支配者大衆が上からの命令に対して自発的に納得・承認、服従する意識性・規範性の高い出来事(つまり[★ / (★・★) / ニ])についてはヴェーバーの理論ではうまく説明されていない。これは道具の使用の例で言えば、ヴェーバーが例示した学習の習熟プロセスとはまったく異質な洞察学習( = 脱構築のメカニズム)と関係している。人間の道具の使用の全体像は習熟・自動化のプロセス(構築化のモーメント)と洞察学習のプロセス(脱構築のモーメント)という相反する二つの事象の力動的関係が見えたとき初めて理解できる。しかし、ヴェーバーの行為論的社会学はドイツ歴史学派経済学に潜む全体論的・流出論的な価値判断を排斥・否定する苦闘の中から生み出されたものであり、認識論的にもディルタイやブントなどの直観的、集合的な価値要素を排除することで構成されている。つまり、ヴェーバーの社会学的方法論は人間の価値の構築性の側面にもっぱら焦点を当てた診断学的なものとなっており、支配論に引き付けて言うならば、それは正当化の機制にかかわっている。旧稿の支配論が自己正当化・自己義認や諒解といった構築性の原理で専ら説明されているのはこれ故である。正当性(脱構築)と正当化(構築化)は現象として相反するものであり、互いに相入れない関係にある。ヴェーバーは方法論上の原理的な制約から、支配の正当性をうまく説明できないのであり、旧稿の「理解社会学のカテゴリー」では、支配の正当性を「正当性」諒解( = 適法性に対する特有の信仰)という奇妙な造語によって概念規定が曖昧なまま説明しようとしている。しかし、支配の原理的な説明部分には、この「正当性」諒解は一切登場せず、支配は専ら正当化・自己義認、諒解で説明されている。一方、旧稿の「支配社会学」から場所的にやや離れたところにある「政治ゲマインシャフト」や関連する諸項、あるいは「種族的ゲマインシャフト」の項においては、この「正当性」諒解( = 適法性への特有の信仰)が説明の中心概念として登場し、今度は逆に正当化論の話しがきれいに抜け落ちている。こうした旧稿全体の論理構成を見ると、ヴェーバー自身が「正当性」と「正当化」の違いを明確に自覚しながらも、支配の正当性を方法論的な制約から説明しあぐねている様子が伝わってくる。つまり、新稿のみならず、旧稿の支配論においても、理論的な飛躍や解離が起きているのである。