著者
陣内 恵梨
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.31-45, 2022-10-14 (Released:2023-10-13)
参考文献数
13

これまで神功皇后に関する研究には、絵馬や浮世絵、絵葉書や紙幣などの表象を取り扱ったものがあった。それらの先行研究からは、神功皇后のイメージが、為政者にとって、軍事的・ジェンダー的な観点から、非常に有益な両面性を備えた女性シンボルであったことが解明されてきた。第一に、神功皇后が国家主義的な政策・方針に利用可能な軍神的側面を持ち合わせていたこと1。神託に従い、朝鮮半島を征服した神功皇后の「三韓征伐」伝説は、前近代より、同時代の日本人の朝鮮半島への差別・領有意識を助長し、大陸への侵略思想を掻き立てる戦争プロパガンダとして機能するものであった。第二に、神功皇后が近代的女性規範に適応可能な母神的側面を有していたこと2。今日まで安産信仰で知られている岩田帯(腹帯)伝説に語り継がれているように、応神天皇を出産し、天皇の母となった神功皇后は、近代における女性国民の最重要課題として設定された、国民の再生産との高い親和性を備えていた、と指摘されてきた。しかしながら、神功皇后には、それだけでない別の側面も存在していた。記紀神話において「男装し、軍を率いた」「60年以上、国を統治した」神功皇后は、明治政府の推進した男性天皇の擁立と近代的性別規範と真っ向から対立し、齟齬を生み出す存在でもあった。先行研究において、長は「女性兵士と産む身体を兼ね備えるというイメージ像を広く知られていることで、近代国民国家が構築しようとする性差の境界をおびやかす。利用しやすい素材ではなかっただろう3」と述べている。原は、長の指摘を踏まえた上で、明治天皇の御真影の作者として有名な印刷局のお雇い外国人・キヨッソーネによってデザインされた神功皇后図像(以下、「キヨッソーネ神功皇后図像」と称す)の非戦闘性4と女性性の強調5に着目し、「キヨッソーネ神功皇后図像」【図1】とは、既存の神功皇后観とは乖離した「銃後の神功皇后像6」としてデザインされた表象ではないかと推測している7。明治政府は「王政復古」の象徴として神武天皇に加えて神功皇后を使用する際、最も著名な皇后である神功皇后の武闘的イメージの転換を試みたものの、時代が日清・日露戦争を迎える中、武闘的な神功皇后が適合的なモデルとして浮上してしまったと述べている8。さらに、神功皇后表象の一部には9、軍勢を指揮する神功皇后の傍らに武装した侍女、あるいは女性の兵士が登場する10。イメージの世界において、麾下に男性兵士のみならず、女性の兵士をも追随させていた神功皇后は、女性を銃後から前線へと進出させる力を備えていたのである11。しかしながら、男女の性別分業制が近代国民国家の基盤である以上、下手をすれば生身の女性をも公的領域へと進出させかねない神功皇后は、確かに、長の指摘する通り「利用しやすい素材」ではなく、原が推測するように転換しなければならない女性像であった。それでも、二人の指摘通り、神功皇后の武闘的なイメージは、対外戦争の軍神としての使い勝手の良さから、日清・日露戦争へ向けて、引き続き国内で使用されていたことは間違いない。そこで本稿では、1725年から 1999年にかけて、国内で制作・流通した神功皇后図像全268 件の通史的分析の結果、明治日本が 本格的な対外戦争を迎える以前、1880年から1890年代にかけて、イメージの世界において、二つの変化があったことを取り上げたい12。一つ目が、1890 年代以降に制作・流通した図像群から、神功皇后に付き従って、前線に赴いた女性兵士の姿が確認できなくなっていること13。二つ目が、神功皇后の「60 年以上、国を統治した」逸話に由来する「女帝」としての神功皇后図像が、1890年代以降に制作・流通していた図像群から、発見できなかったことである。つまり、神功皇后の武闘的なイメージが引き続き使用されていた一方で、1880年から1890年代にかけて、庶民レベルで共有されていた神功皇后イメージから14、「女帝」神功皇后図像が消失していく、何らかの要因があったと考えられる。神功皇后の「女帝」側面が完全に否定されるのは、1926年10月の詔書においてだが15、イメージの世界ではそれよりも早くに「女帝」神功皇后図像が確認できなくなっている。水戸藩の『大日本史』によって、神功皇后は女帝ではなく皇后とする歴史観が定着するまで16、神功皇后は息子・応神天皇の摂政(補佐役)ではなく、天照大神に次ぐ高貴な女性であり「女帝(第十五代天皇)」の始まりであると認識されていた。1786 年『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』【図2】の図像は、その好例である。まず、画中の神功皇后の被っている冠が、日輪の飾りと独特の形状から、天皇にのみ許された冕冠だと推測できる。さらに、束帯の胸元には皇帝の象徴である金色の龍(黄竜)が大きく描かれ、その左右には日月が配置されている。他にも、左袖には神功皇后が武器とした鉞の他に、霊獣・白虎や鳳凰(あるいは鸞)が意匠として施されている。また、背景の文章から「崩御」の文字が読み取れるため、装飾と合わせて、通り名こそ神功「皇后」であっても、実質的には仲哀天皇に次ぐ「第十五代天皇」、すなわち「女帝」として扱われていた様子を読み取れる17。なお、「女帝」神功皇后の影響力は、皇朝に限定されておらず、武家政権においても通用した。神功皇后の引用は、女性政治家として辣腕を振るった北条政子の政治参与を賛美し、日野富子による執政を正当化する根拠として扱われていたのである18。このような神功皇后の政治的な側面は、儒教に代表される男性支配の原理のみならず、女性を私的領域の要たる家庭に配置し、母親として育児に専念させようとする近代国家の性別分業制をも揺るがしかねない。長・原同様に神功皇后の政治的な危険性を指摘した千葉は「1880年代以降において、神功皇后のようなファルスを持つ女性像は、女権運動をはじめとする性的侵犯と結び付けられ社会的タブーとされ」、男性たちに自らの地位が脅かされるような恐怖を与えるものであったと言及している19。さらに、明治の新政府が政治の領域からの「女権」の排除に積極的であったことから20、まだ海外領土獲得のプロパガンダとして活用できる神功皇后の武闘的なイメージよりも、女性の政治参与に繋がりかねない「女帝」イメージは、男性中心社会において、ひどく目障りな側面であったと推測できる21。先行研究において、近代的性別規範を逸脱する神功皇后の軍神的側面は「日清・日露戦争という対外戦争を経て、戦争の体験が社会化していく」過程で「急速に変質させられ」いずれは「消去される」と述べられてはいるが22、女性の政治参与を肯定する神功皇后の政治的側面の消去の過程については、管見の限り、これまでに言及されてこなかった。そこで、本論文では、先行研究における千葉の指摘を踏まえ、近代的性別規範との齟齬を生み出す「女帝」神功皇后が、近代国民国家における男性優位社会を揺るがす危険性を孕んでいたことを、明治初期の女権拡張運動における神功皇后関連の言説より明らかにする。同時に、女権拡張運動が盛り上がりを見せながらも「男装し、軍を率いた」「60年以上、国を統治した」神功皇后と近代的性別規範とが、大きな衝突を生むことがなかった理由を、神功皇后を表紙絵・創刊号に採用した『女学新誌』『女学雑誌』から読み解く。そして、女権拡張運動の後継者として登場し、女性の地位向上を謳う「女学」を提唱した両誌における神功皇后の読み替えの痕跡を浮き彫りにすることによって、「女帝」神功皇后イメージの排除の流れを明らかにすることを本論文の目的としている。