著者
青野 道彦
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.57, no.3, pp.1211-1214, 2009-03-25 (Released:2017-09-01)

パーリ律「羯磨犍度」に説かれる七種の懲罰羯磨の適用範囲について論じる際,従来,<懲罰羯磨を「不応悔罪」に科した場合,その羯磨は違法なものとなる>という記述,及び,それに対するSamantapasadika(=Sp)の<「不応悔罪」とは,波羅夷罪及び僧残罪である>という註釈が注目されてきた.そして,懲罰羯磨は波羅夷罪と僧残罪以外の「応悔罪」について科すべきものと理解されてきた.ところで,パーリ律には,これと矛盾する<習慣的行為に関して過失がある比丘に,サンガは望むならば,懲罰羯磨を科すべきである>という記述がある.従来の研究では,Spの当該箇所にはその註釈が存在しないためか,この記述の内実について注目されなかった.しかし,apubbapadavannanaというSpの註釈方針を念頭に入れると,先行する箇所に<「習慣的行為に関して過失がある」とは,波羅夷罪と僧残罪を犯したことである>という註釈が見出せる.即ち,懲罰羯磨は波羅夷罪及び僧残罪にも科しうると言うのである.この矛盾について,復註Saratthadipanitikaが言及し,その解決法を提示している.復註は,<懲罰羯磨は僧残罪に科すことができる>という前提に立ち,矛盾する記述を整合的に説明しようと試みる.この説明を鵜呑みにはできないが,復註の<懲罰羯磨は僧残罪に科すことができる>という見方を支持する記述がパーリ律の依止羯磨の因縁譚に見出せるため,安易にその見方を排除すべきではない.懲罰羯磨の適用範囲について検討する際,従来,波羅夷罪及び僧残罪は排除されてきた.しかし,パーリ律内部の矛盾を直視するならば,我々は従来の見方に止まることはできず,懲罰羯磨が僧残罪に科される可能性も考慮する必要があろう.
著者
青野 道彦
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.1250-1255, 2015

部派仏教教団において異見はどの様な扱いを受けるのか,本論文はこの問題について検討した.この問題については,佐々木閑氏がcakrabheda(破法輪)とkarmabheda(破羯磨)という律専門用語を分析し,李慈郎氏がnanasamvasakaという律専門用語を分析し,何れも異説共存の可能性を提示している.本論文では,これを踏まえ,ukkhepaniyakamma(挙罪羯磨)という別の律専門用語に注目して,部派仏教教団における異見の位置付けについて再検討した.具体的には,以下の様な作業を行なった.先ず,ukkhepaniyakammaの意味を検討し,それが比丘・比丘尼の共同行為から執行対象者を「排除するための法律的行為」であることを示した.次に,ukkhepaniyakammaの目的について検討し,それが律規定に関する異見及び教説に関する特定の異見を取り締まる制度であることを示した.続いて,ukkhepaniyakammaの執行判断について検討し,それが比丘サンガ又は比丘尼サンガの総意に基づき執行されるもので,一人でも執行対象者を支持するならば,執行できないことを示した.最後に,ukkhepaniyakammaを科された比丘への追従行為に関する律規定を検討し,比丘尼はukkhepaniyakammaを科された比丘に追従することが禁じられるが,比丘はそれが許容され,更には,ukkhepaniyakammaの執行主体とは別の比丘サンガを新たに組織することが許されることを示した.そして,これらを考え合わせ,律規定に関する異見及び教理に関するある種の異見が必ずしもサンガから排除されず,たとい排除されたとしても,比丘達により合法的に受容される余地のあることを指摘した.