著者
高橋 彌
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.25-32, 1990-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
21
被引用文献数
1 1

日本3大急流の一つに数えられる富士川の下流部は、1500年代までは左岸岩本山下から東に向かって流れ、現在の田子の浦港方向に乱流し、扇状地を形成していた。しかし、1621(元和元)年から1674(延宝2)年まで、実に53年の年月を要して、総延長約3, 000mに及ぶ大堤防が建設された。この堤防によって富士川東流は岩本山と水神の森間で締切られ、流れは現流路方向で固定された。工事は古郡氏3代にわたる執念とも言うべき努力と洪水観察を含む当時の最新土木工事の成果であり、雁堤として現存し、逆L字の特異な形状で知られている。この成果は富士川左岸一帯の地域を洪水から守り、加島平野として豊かな田園地帯とする事を可能にした。これはまた、誕生間もない徳川幕府が全国支配のため企画した重要施策実現の一環となった。本工事完成により可能になった施策と影響は次の通りである第一に元和偃武、即ち、武士帰農の一助になり、多くの入植者を迎え入れることができ加島新田6, 000石の開発が可能となり、新旧37ケ村が栄えた。第二は、富士川の流路が定まることにより、東海道の「富士川の渡し」が定着し、幕府体制下の交通網の整備が可能となった。第三として、甲府や、諏訪、松本と言った内陸とも、富士川の船運を開発することにより交易が盛んになり、幕府財政を支えると同時に地域の経済発展をもたらす事になった。一方、自然の流れを強固な左岸築堤で締切った結果、対岸には洪水流れが流入し易くなり、しばしば右岸蒲原町方面に氾濫が繰り返し発生するようになった。雁堤はこれまで特異な形状と、治水面の効果のみが評価されていたが、本研究の結果、周辺地域に大きな影響を与えたと同時に、当時の日本の社会体制や経済を支えるうえに極めて重要な役割を果たしていたことが明かになった。
著者
高橋 彌
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.115-121, 1989-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
10

富士川は日本3大急流に数えられる暴れ川である。しかも上流水源地はフォッサマグナに添い、花崗岩の風化帯・火山噴出物等非常にもろいため石礫の流下が極めて多い。そのため上・下流ともしばしば激しい災害を受けてきた。富士川下流の流路は、かつて現河道より東寄り田子ノ浦港方向に向かい、多くの派川を持って駿河湾に流入し、洪水と流送土砂によって沿川には広大な扇状地が形成されていた。雁堤は1621 (元和7) 年より1674 (延宝2) 年まで古郡氏3代の手によって、その扇頂部に築造された逆L型の平面形状をした特殊河川堤防で、東流する富士川の流れを締め切り現流路に固定したものである。これによって生じた富士川左岸の加島地域には5,000石と言われる開田開発が行なわれ、斬しい多くの村々が誕生した。また、洪水のたびに変わっていた流れが雁堤によって固定され、それまで安定性を欠いていた「東海道富士川の渡し」も、幹線交通の拠点として幕府体制を支える役割が期待されるようになった。更に、1612 (慶長12) 年、角倉了以によって開削され内陸との間に始まっていた舟運による交易も、船溜りや流路の安定とともに盛んになり、幕府の財政を支えると同時に地域の経済に大きな発展をもたらすようになった。しかし、左岸の堤防が強化されると富士川の急流は、従来と変わって下流に災害を与えるようになり、以来、下流及び右岸の蒲原側がしばしば洪水被害を受けるようになった。完成以来300年余を経て雁堤は現在もその効用を発揮しており、加島一帯は工業都市富士市へと発展している。雁堤は、従来、特異な形状と治水面の効果のみが評価されていたが、このように地域発展と社会経済に果たした役割と、歴史的意義は大きい事が認められた。