著者
髙野瀬 惠子 タカノセ ケイコ Keiko TAKANOSE
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2009-03-24

院政前期において注目すべき人物に令子内親王(1078〜1144)がいる。令子内<br />親王は白河天皇の第三皇女として生まれ、賀茂斎院を勤めた後に鳥羽天皇の准母として皇<br />后となった。院号こそ受けなかったが、院政前期に未婚の皇女が立后して皇室を支えた事<br />例として、その存在の意義は小さくない。そして内親王家で行われた文芸活動もまた考究<br />すべき面を持つ。<br />令子内親王は、母・賢子の養父である藤原師実とその室麗子によって、摂関家で養育さ<br />れた。従って斎院時代(1089〜99)には師実・師通親子の手厚い後見を受けており、<br />摂関家の文化的豊かさを象徴する存在であった。その華やかな内親王家の和歌活動を伝え<br />るのが『摂津集』であり、同じ時期の摂関家の和歌活動を伝えるものに『肥後集』がある。<br />この二集には、摂関家の盛儀歌合や廷臣を率いた花見など、伝統的美意識を継承した催事<br />に関わる和歌が多く収められているが、そこには摂関家の伝統と権威を守り文化的主導権<br />を保ち続けようとする師実・師通親子の意識の反映がある。この時期の令子内親王家は「摂<br />関家文化圏」にあったと言ってよく、それは先行研究において指摘されていた。しかし、<br />令子内親王斎院期には、紫野の斎院御所に於いて神楽が年二回(夏神楽と相嘗祭後朝神楽)<br />催行されていたことや、音楽との関わりも多い廷臣と女房の交流などに、芸能流行の時代<br />の貴族社会の一面を具体的に知ることが出来る。<br />令子内親王が斎院を退下した康和元(1109)年六月、関白師通が三十六歳で薨去し<br />た。これにより摂関家が大きな痛手を被り、自河院政が進行する。内親王は退下後も師実<br />夫妻との関係が深かったが、康和三(1101)年二月、師実もまた薨去した。その翌年、<br />令子内親王は同母弟の堀河天皇に寄り添うように内裏に入り、弘徽殿に住むようになった。<br />この時期の『殿暦』『中右記』の記事からは、令子の内裏入りに、堀河天皇と摂関家(忠<br />実)との結合、天皇と白河院との紐帯をそれぞれ強めるという政治的事情もあつたことが<br />察知される。天皇が大切にする姉令子内親王とその女房たちは、今度は天皇を中核とした<br />文芸活動の中に身を置いた。それは『堀河百首』が作られた時期である。内親王自身は歌<br />人ではなかったが、少なからぬ歌詠み女房を擁する前斎院令子方では、中宮篤子方と同様<br />に、天皇側近の歌人らとの盛んな交流が行われた。『大弐集』はこの時期の令子家の生活<br />を具体的に伝えている。ここでは、百首歌と関連する題詠歌、隠し題などの技巧的・遊戯<br />的な歌、漢詩文の影響を受けた物語的な連作等が見られるが、それらにこの時期の天皇と<br />廷臣らの嗜好と新風の模索が表れている。令子家は、堀河天皇を中心とした文化活動の中<br />にあってその特色を体現するものであり、いわゆる「堀河歌壇」の持つ明るく活動的な雰<br />囲気をよく反映していた。<br /> 嘉承二(1107)年、堀河天皇が崩じると、新帝鳥羽が幼少であったことから令子内<br />親王が准母となって立后し,皇后宮となった。これによって令子内親王とその女房らは、<br />今度は「鳥羽天皇後宮文化圏」とでも言うべきものに属することになった。この時期の令<br />子家の具体的な姿を伝える女房歌集はないが、『金葉和歌集』等に皇后宮令子周辺の和歌<br />を拾うことが出来る。遺された断片的な資料から、令子家の和歌活動は小規模で即興性が<br />あり、小弓・蹴鞠・管絃、或いは今様や神楽歌などと場を同じくすることも多かったこと<br />が窺われる。その背景に、内裏や摂関家での大規模な歌合や物合がなくなり、文化活動が<br />「家」レベルや仲間同士で行われる傾向が強まったことがある。令子家の和歌は、総じて<br />個性的なものとも斬新なものとも言い難い、伝統的な詠みぶりである。しかしながら、皇<br />后宮令子が歌詠み女房を多く抱え、また音楽や物語を愛好する「風雅な宮」(『今鏡』)<br />として存したことは、後宮の中心としての必要性に沿ったことでもあった。史料に散見する<br />皇后宮の行事等からも、後宮の伝統を継承し維持することが期待されていたことが窺われ<br />るのである。<br /> このように令子内親王の人生がそのまま内親王家の文芸活動のあり方に影響したため<br />に、その活動は一貫性やオリジナリティーのないものと見なされがちで、文芸の場や内容<br />の詳細と特質に対する研究は十分には行われてこなかった。しかし、強い個性を持たず、<br />貴族社会の状況が色濃く反映したものであつたこと自体に、令子内親王家の特色と存在意<br />義があると言うべきである。白河・鳥羽両院の時代、すなわち院政の開始から確立に至る<br />時代、貴族社会が激しく変貌する中で生きた令子内親王は、斎院、前斎院、皇后宮、太皇<br />太后宮と、呼称の異なる各期において、環境も少しずつ異なる所に身を置いた。その結果<br />として、各時期の皇室と貴族社会の具体的状況と変化の様相を、内親王家のありようにも<br /> 文芸活動にも反映し続けることになったからである。貴族社会の状況を反映したという点<br />では、令子の同母姉妹(郁芳門院媞子、土御門斎院禎子)や堀河天皇中宮篤子の各内親王<br />家の文芸活動にも見ることが出来るが、とりわけ令子内親王は、六十六年の生涯において<br />長期間重い立場にあった点が重要である。<br /> 白河院政から鳥羽院政に至る時代は、いま、歴史学において中世社会の出発期として注<br/ >目される。この時代の文学の研究には『堀河百首』や『金葉和歌集』等、主要作品を読み<br />解くことが重要であるが、それらの精確な読解のためには、周辺の文芸の場のあり方と人々<br />の意識、貴族の生活実態を探ることが不可欠である。令子内親王家及びその周辺の文芸活<br />動を精査し特質を考察することは、この時代の文学の研究のために必要であり、延いては<br />和歌史の研究にも寄与するものである。