著者
黄 英
出版者
九州大学
雑誌
Comparatio (ISSN:13474286)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.34-43, 2008

賢治の作品において、みんなが幸福になる理想世界を実現するために、自己犠牲的な行動がよく表現されている。そして、自己犠牲は〈他者のため〉という基本要素が含まれるため、賢治に〈菩薩〉というレッテルが貼られ、聖人視される傾向が出てくる。また、それに反発する傾向もしばしば見られる。これでいいのかと疑問を感じる。本稿は賢治における自己犠牲の内実を問い直すための第一歩として、よく自己犠牲色の強い作品とされる「よだかの星」におけるよだかの死を再検討してみる。自己犠牲と言う場合、必ず二つの面が備わっている。ひとつは、自己の利益を無視し、さらに自己の命までも捨てること、もうひとつは、対他関係において、その行為は他者の為になること。しかも、二つの面が同時に揃わなければならない。自己の利益を考えず、さらに自己の命を捨てる行為が、他者の為になってはじめて、自己犠牲と呼ばれるのであろう。自分の命を捨てる行為は必ずしも常に〈他者のため〉を主な目的とするとは限らない。ある場合は、自分が直面する苦難からの脱出、いわゆる自己救済が主な目的ということもある。以下は「よだかの星」のよだかの死に対する位置づけを、テキスト読解並びに修羅意識との関連を通して、試みたものである。