著者
Ahmed Al-Ajili
出版者
九州大学大学院地球社会統合科学府
雑誌
地球社会統合科学研究
巻号頁・発行日
no.7, pp.125-133, 2017-09-25

イラクの核開発計画の始まりは1950年代であったが、統合された核開発計画が実際に開始されたのは1980年代である。イラクは当初、フランスやイタリアなどの海外企業に依存した核開発を進めていた。海外に技術スタッフおよび科学者を送ることを通して核開発に従事する人材の育成を目指し、その人数は約8000人に達した。その結果、米国を中心とする国際社会は、イラクの核開発の目標や意図、そして中東地域における安全と安定に対する脅威を懸念し始めた。まずイスラエルが1981 年にフランス製ORISAK 原子炉(イラク名「TAMOZ」)を破壊し、核開発計画を阻止しようとした。また、Iraqi Nuclear Program(INP)で働いていたイラク人やとアラブ人科学者の暗殺を行った。湾岸戦争時の1991年4には、イラクの核兵器施設撲滅を監視するために国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会(United Nation Special Commission (UNSCOM))が形成された(安保理決議第687 号)。この決議文には、イラクの核兵器施設を取り除くために国際原子力機関と協同し、化学、生物、およびミサイル兵器施設の撲滅を進めることが記載されている。本稿では、1950年代のはじめから1991年の湾岸戦争の勃発までのイラクの核開発計画の歴史的展開を分析することを通して、サダム政権がINP を平和目的から軍事目的に変えていった要因を明らかにする。結論は以下の通りとなる。軍事目的に移行した要因は、イラクに対する近隣諸国からの脅威といえるだろう。1980 年、イスラエル航空機によるフランス製原子炉ORISAK に対する爆撃により、イラク政府は核を所有する軍隊と核を所有しない軍隊との力の不均衡を考慮し始めた。そして1980 年のイラン・イラク戦争の勃発により、イラク政府は突然の攻撃を予期した核兵器の保有を考慮するに至った。特にこの戦争の期間イスラエルとイランの両国が核能力を有していたため、イラク政府は核兵器保有の可能性を追求した。同時にイラク政府は、世界の先進国の立場を考慮して、原子力の必要性と軍事および産業開発を通じたアラブ諸国間の統一の重要性を強調した。