著者
邊 英浩 BYEON Yeong-ho
雑誌
都留文科大学研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
no.74, pp.159-169, 2011-10-20

朝鮮王朝は朱子学によって建国され、その思惟様式と対外観は16世紀に登場した李退溪(名は滉、字は景浩、退溪は号1501~70年)、李栗谷(名は珥、字は叔獻、栗谷は号 1536~84年)によって代表される。しかし朝鮮王朝が末期に近代に遭遇したとき、その基本的な思惟様式と対外観は大きく変容していた。それは、夷狄の中華への上昇可能性の肯定、儒教文明化以外の文明化への視野の拡大、この2 点である。こうした思惟様式と対外観の変容が起きつつあったときに、朝鮮王朝は近代を迎えることとなった。そのため高宗政権は、自ら近代化を進めながら、これらの近代的な夷狄との外交交渉、同盟関係を適宜構築していく政策を推進し、一定の成果をあげていくことができたのである。これらは国際関係を単に力関係から見るという次元では理解できないものであった。
著者
邊 英浩 BYEON Yeong-ho
出版者
都留文科大学
雑誌
都留文科大学研究紀要 (ISSN:02863774)
巻号頁・発行日
no.76, pp.87-96, 2012-10-20

1860年に水雲・崔済愚(1824~1864年水雲は号)によって創始された東学は韓国固有の生命思想、神観念を基軸としつつ、儒教を中心とし、老子思想、仏教思想、キリスト教的な要素をも取り込みつつ集大成したものである。崔済愚は漢文とハングルとでその思想を書き残したが、韓国固有の人格神ハヌルニムを漢文史料では、天、上帝などと記した。しかしそれは中国思想における天、上帝などではなく、ハヌルニムを漢文で記すときに生じる現象であるため、あくまでも韓国固有の神観念であるハヌルニム信仰を内容としている。東学は人間の心はハヌルニムの心であるとし、人間と神との距離を圧縮的に接近させ、当時存在した身分差別を否定的に見る内容を持っていた。そのため東学は以後中下層の農民層を中心として急速に信徒を獲得すると共に、朝鮮王朝や当時の支配層である士族(両班)からの弾圧を受け始めた。 崔済愚は朝鮮王朝により1864年に処刑されたが、東学は第2 代教祖の海月・崔時亨(1827~1898年海月は号)に伝授され、経典と教団の整備に尽力し、東学は一層民衆生活の中に浸透し大勢力に成長していった。そのため東学は中下層の農民層を中心とした信徒を獲得すると共に、朝鮮王朝や当時の支配層である士族(両班)からの弾圧を受け始めた。その弾圧に反発したのが1894年に勃発した東学農民戦争である。当初東学農民軍は朝鮮王朝に抵抗し南部地域を中心とした独立王国的な勢力となっていったが、そこに日本軍が介入することにより壊滅的な打撃を被った。 東学農民革命以後、風前の燈火のようになった教団を継承したのは、第3 代教組の義菴・孫秉(1861~1922年義菴は号)であった。孫秉は日本からの弾圧を逃れるために、1905年東学の名称を天道教と改称し、教団を近代的な宗教組織体系に整備した。だが、孫秉は日本からの独立運動を放棄したわけではなく、1919年の3・1 独立運動を主導し、獄中死することになる。 東学は韓国固有の神観念の集大成的なものとして韓国ではしばしばその画期的な意味が触れられてきた。しかし、日本では東学は相当誤解され、天道教という名称さえ知られていない状態である。日本における東学・天道教への一般的な受け止め方は、恨みと民衆反乱、あやしげな民衆呪術といった反応に要約できる。思想内容に関心が薄い歴史学者、文化人類学者たちにより研究されてきたためであろう。 著者の金容暉氏(高麗大学校研究教授、ハヌル連帯事務総長)は、2011年10月に日本の一般市民向けに「東学・天道教の霊性と生命平和思想」という講演原稿を作成された(肩書きは講演当時のもの)。訳者は、日本ではあまり知られていない東学のエッセンスとでもいうべき生命思想、神観念を簡潔に整理したこの原稿を日本語で紹介する意義が小さくないと考え、ここに訳出した次第である。なお翻訳にあたり朴源出氏(天道教布徳師2011年当時)による翻訳原稿草案があり、邊英浩がそれを活用しつつ訳文を完成させた。そのため、翻訳の責任はすべて邊英浩にある。