著者
Jacqueline Banerjee
出版者
神戸女学院大学
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.33-53, 1994-03

ヴィクトリア朝時代には、子供であるというだけでもつらいことだった。女の子であるというのはもっとつらいことだったのであろう。この時代の女性小説家たちはその満たされぬ思いを、器量がよくなくて反抗的なジェーン・エアや(シャーロット・ヤング作『ひなぎくの花輪』の)エセル・メイのような女性主人公に注ぎこんだ。わたしたちはこのような少女に共感を覚えるのだが、彼女たちが成長するにつれてその反抗が鎮まっていく傾向に気づく。男性作家も女性作家も、結婚と家庭生活を女性主人公たちの究極の到達点と定めていたのである。この定型例はディケンズの作品に明らかに見られる。『荒涼館』の苦悩する子供キャディ・ジェリビーはあっさりとかわいい善良な主婦になってしまう。しかしさすがはディケンズ、キャディやリトル・ドリットのような人物の奉仕は心からのものであり、深い満足感をもたらしている一方、愛がなければ(『つらい時勢』のルイザ・バウンダービーの場合のように)家庭にも幸福の可能性はないことを明示している。とは言え、他の作家たちはもっと模範例のかげから反抗をのぞかせ、束縛のもとで苦悩したり(たとえばジョージ・エリオット作「エイモス・バートン」のパティー・バートン)、より大きな世界にエネルギーのはけ口を見つけようとする年長の女性主人公を描いてみせる備えができていた。しかし、そのような主人公たちの努力は、ハンフリー・ウォード夫人の描くマーセラや、ヤングの描くレイチェル・カーチス(『家族のなかの賢い女』)の慈善事業的な冒険で例証されるように、悲惨な結果に終わりがちである。ヴィクトリア朝時代の女たちがよりよき教育や職業の機会を必死に求めていたことは、ヤングのようながんこな伝統主義者の作品からですら、明白になる。そういう機会がないので、女主人公たちは、シャーロット・ブロンテの描くシャーリーのようにダイナミックにも、エリオットの描くダイナ・ポイサー(『アダム・ビード』)のように決然ともなりうるのだが、やはりその活動を家庭の炉辺に限定しなければならないのだ。