著者
山口 和夫 Kazuo Yamaguti
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2019-06-20

一 本稿の主題本稿は、近世日本の政治史を、天皇・朝廷の存在と機能に視点をあて、通時変化にも留意して叙述するものである。日本史上、天皇は古代・中世・近世・幕末維新期・近代を経て、今なお存続する存在である。天皇に関する研究が盛んな他の時代に比べ、戦国期の没落以降、豊臣政権を経、江戸幕府が成立し、強大な将軍権力のあった近世期についての研究蓄積は多くない。天皇がなぜ長期的に存続したかを解明するためには、どのようにして近世期に存在したのかを問う必要がある。近世京都の天皇は、終身在位する明治天皇以降の近代と異なり、生前譲位を基本とした。譲位後の上皇・法皇は、京都の仙洞御所に居し朝廷内で院政をおこなった。日本の近世社会を構成する基本単位は、家であった。天皇には天皇の家があり、天皇家、公家衆諸家、世襲親王家、諸門跡、地下官人諸家などは、朝廷という重層的な集団を構成した。洛中洛外の社家も、御所の奉仕者、非蔵人や後宮の女官を供出した。それぞれの家は、家に伝わる官職や技芸、家職を世襲した。天皇家では、皇位と祭祀祈祷・学芸などを世襲・相伝した。諸家の集合体である朝廷は、社会と諸関係を結び、国家的祭祀や官位叙任による序列編成などの政治的宗教的機能を担った。近世の天皇を研究するためには、天皇の基盤であった朝廷を問い、武家の権力や社会との関係を問う視点が求められる。このような考えから、題目を『近世日本政治史と朝廷』とした。二 本稿の論点と構成本稿の主要論点、課題は次の三つである。第一には、近世初頭から後期までを通観する通時変化の視点。朝廷の近世化が問題となる。戦国期に政治的・経済的に衰退した朝廷という集団がどのようにして近世を迎えたのか。武家の政権権力編成の客体としてのみでなく、朝廷側の動向や、公武、朝幕両者の相互関係、朝廷内部の構造変化を問う視点から集団の近世化を追究する。その際、豊臣政権期から江戸時代までを通観するよう努めた。論点の第二は、院の問題である。経済的衰退で途絶した生前譲位の復活に伴い、近世には院と院御所(仙洞御所)、院の組織が存在した。院、上皇は、幕末維新期に存在しなかったため、当時を体験した下橋敬長の懐旧談『幕末の宮廷』(平凡社東洋文庫、1979年)に含まれず、幕末維新史研究で言及されてこなかったが、近世天皇家と朝廷の柱となる構成要素である。 これは、朝廷組織の問題につながる。豊臣政権、江戸幕府の後援で生前譲位を回復した天皇家・朝廷は、17世紀の相続事情の結果、天皇御所と3人の院御所とが併存・群立する時代をもった。天皇親政と譲位、院政、政務移譲による親政の循環構造と組織編制、内部課題を解明する必要がある。武家政権との共生による再建にともない、朝廷の経済規模、構成員はとも近世に増加した。近世朝廷の成長、内部組織の整備、組織編制について、江戸幕府との関係を交え、朝廷の自律性を問うものとする。「叡慮」、天皇の意志とその統御を重視する議論に対して、申請者は朝廷内部の構造、および将軍権力・幕府との関係の相互を検証しなければならないと考える。 論点の第三は、近世朝廷、朝幕藩体制解体契機の問題である。江戸幕府の経済的支援と政治的関与で強固に保持された体制が、いかに変化したのか。近世朝幕藩体制の解体契機は、一般には外圧、ウェスタンインパクト、対外的危機から説かれる。藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)・『近世後期政治史と対外関係』(東京大学出版会、2005年)は、その一つの到達点で、対ロシア関係、北方危機を踏まえ、幕末に至る朝幕関係変化を寛政期まで遡及させ論じている。さらに高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』(東京大学出版会、1989年)・『近世の朝廷と宗教』(吉川弘文館、2014年)は、近世朝幕関係に延宝期、宝暦期の二つの画期を設定し、ゆるやかな変容を描くとともに、多様な家職間争論における家職組織の広域展開と朝廷機能変化とを重視し、朝儀・神事における排仏排穢措置から、近代に先立つ神仏習合の喪失を明らかにし、プレ神仏分離と位置づけている。 高埜・藤田両氏の議論には、近世化の徹底であり、近代の予兆ではないとする宮地正人「明治維新の論じ方」(『駒澤大学史学論集』30、2000年)の強い批判もある。本書では、三者の仕事に学び、家職論や習合の喪失について、高埜学説の個別実証(学習院大学文学部史学科卒業論文「職人受領の近世的展開」、1985年12月20日脱稿・提出、のち改稿して日本歴史学会編集『日本歴史』に投稿、同誌505号、1990年6月掲載)から開始した申請者の現段階での展望を、朝廷内部での矛盾進行、社会との関係変化の相互関係を究明する視点を加味して示したい。ここで本稿の構成について記す。 *第一部「公儀権力成立と朝廷の近世化」には、15世紀の内乱以降、室町幕府とともに経済的に衰退し、生前譲位・諸朝儀の用度や要員にも事欠いた朝廷が、いかにして近世を迎えたのかを扱った論稿と、豊臣政権、江戸幕府―両者を公儀権力あるいは統一権力というーの施策を扱った論稿を収めた。公儀権力の成立過程を朝廷との関係から説くもので、知行宛行・諸法度発令による役儀設定を媒介に、身分把握され、統一的知行体系に包接され、全体秩序構築に集団ぐるみ動員されて寄与するとともに、朝廷自体も近世化を遂げた過程が対象となる。研究史上、高埜利彦氏の業績で残されていた朝廷の近世的秩序化を主題とした一章「統一政権成立と朝廷の近世化」と、二章「近世武家官位の展開と特質」とでは、豊臣政権期と江戸幕府期とを通観し、両者の政策の共通点と転換を明らかにするよう留意した。三章「将軍権力と大名の元服・改名・官位叙任」・四章「徳川秀忠・家光発給の官途状・一字書出について」では、幕藩初期の大名に対する武家官位を通じた権力編成を扱い、五章「寛永期のキリシタン禁制と朝廷・幕府」では京都におけるキリシタン禁制を朝幕関係の文脈から論じた。 *第二部「近世朝廷の成長と変容」には、公儀権力に動員されて自らも近世化を遂げ、豊臣政権・江戸幕府の支援で生前譲位・院御所を回復した以降の朝廷の、経済・構成員拡張と組織整備、院政に関する論稿を収めた。近世の院の政務と組織機構も、従来の研究蓄積に乏しく、開拓に努めたところである。一章「生前譲位と近世院参衆形成」では、後陽成院・後水尾院御所の番衆、院参衆と取次を解明した。二章「天皇・院と公家集団」では、17世紀の天皇家の相続事情と御所群立、天皇親政と院政の循環構造、禁裏や院の番衆編成と機構整備、職制昇進階梯形成、18世紀に固定化する堂上諸家の階層分解、内部矛盾を包括的に説いた。三章「霊元院政について」では、霊元院の17世紀後期、18世紀初期の二度の院政と朝幕関係を扱い、四章「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」では17・18世紀の天皇・院や摂家の幕府観から朝廷・幕府体制について検証し、学界・社会で定説のないまま流用されてきた下御霊神社所蔵、京都国立博物館寄託、国指定重要文化財「霊元天皇(法皇)願文」の成立年代・記載内容解釈を関連史料から確定させ、近世の朝廷・幕府の両者が一体不可分の構造にあることを論証した。 *第三部「家職の体制と近世朝廷解体の契機」には、18世紀から19世紀にかけての朝廷内部や朝幕関係の変容を対象に、強固な朝廷・幕府体制の解体契機を問う論稿を収めた。家職へ着目した先行研究は存在したが、近世初頭から幕末まで通観し、事例拡充に努めた。一章「近世の家職」では、公家衆が世襲・相伝した家職に着目し、近世化の過程から幕末維新期までを展望した。二章「石清水八幡宮放生会の宣命使」では、17世紀終盤幕府の認可と財政出動により再興された朝廷儀式の一役者が、18世紀に五摂家諸大夫層により巡任・占有される様相を述べた。三章「職人受領の近世的展開」では、18世紀の朝廷が、職人受領の官位叙任制度秩序化のため江戸幕府の後援を得た施策と、その余波で権利を失いかけた真言宗三門跡の回復・広域展開活動を扱った。四章「神仏習合と近世天皇の祭祀」では、近世の天皇が世襲・相伝し自ら実修した神道・仏教の祭祀祈祷すなわち近世天皇の家職の一端と、朝廷の祭祀、寺社の祭祀の三者の様相を述べ、明治維新による変容にも言及した。五章「朝廷と公家社会」では、朝廷の近世化、成長・機構整備と階層分解の矛盾・桎梏、公家社会外への利権獲得動向、近世京都公家町の土地制度について要約し、概括的に述べた。 *三 各部の小括と全体の結論第一部「公儀権力成立と朝廷の近世化」では、戦国期の動乱で衰退した朝廷が、統一政権成立に関わり、近世的秩序化を遂げる過程を、第一章を中心に論じた。近世の公儀権力は、慶長20年(1615)、大御所家康・将軍秀忠・関白二条昭実連署の「禁中并公家中諸法度」を制定・公布し、天皇をも法規範で束縛した。けれども、法度制定の意図は、天皇の習得・体現すべき「諸芸能」「学問」を規定して、定員のある公家当官への豊臣期の武家参入問題を解消し、公家の官職枠を保全して公家・武家の役・身分の別を定め、朝廷集団の朝議運営と朝儀執行体制を整備し、近世の体制に適合的に機能させることにあった。近世の武家権力、江戸幕府による朝廷抑圧・封じ込め策という理解は適切でなく、朝廷再建策の一環として評価すべきものである。 *第二部「近世朝廷の成長と変容」では、近世化を遂げた以降の、近世前期の御所群立と朝廷構成員増加による諸相を論じた。天皇・院は、朝廷=公家身分集団の長であったが、強大な将軍権力を認識し、自身の裁量権限の範囲を自己規制していた。近世の体制下、天皇家は京都での最恵層にあり、幕府からの助成には一定の自足感も抱いた。霊元院(法皇)最晩年の享保17年(1732)の自筆祈願文には、「大樹」(将軍吉宗)への期待が明記されており、「朝廷復古」を標榜した獲得目的は、江戸幕府と共存してその人事権と財政出動に依存しつつ、助成を引き出し、応仁の乱後に廃絶した諸朝儀の再興を果たすことにあった。霊元と近衛基煕との幕府に対する路線の相克という見解(久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年)も、院政第二期の公武合体路線や願文の内容、さらに後継者一条兼香と桜町天皇の行動を含めて検証すると、肯定できない学説である。霊元院と一条兼輝・兼香の共通項として重視すべきは、垂加神道への接近と朝廷神事再興への傾斜であり、近世の歴代天皇・院が、江戸幕府に反感を持続して、全面対決や権力闘争の主体となったとは考えられない、というのが四章の結論である。幕末維新期への展望に言及すると、先行研究(藤田覚『近世政治史と天皇』吉川弘文館、1999年)が重視する光格天皇の行動も、江戸幕府に期待・要求し、幕府の許容範囲内に留まるものであった。武家伝奏人事の事例では、朝廷からの候補者を江戸に示す内慮伺いに応え幕府が決定する方式が、文久2(1862)年まで続けられ、同年末に初めて朝廷で決定し、幕府に事後伝達するように転換した(平井誠二「武家伝奏の補任について」『日本歴史』422、1983年)。文久3年3月7日に将軍家茂が参内し、初めて政務委任の勅命への謝辞を述べた。幕府による大政委任の制度化はこの時に始まった。管見の限りでは、これ以前に幕府が大政委任論を公表したことはない。 幕末の国際関係と国内の政局で、朝廷から幕府への信頼は低下したが、孝明天皇の幕府への期待と佐幕主義は不変だった。慶応3(1867)年12月の「王政復古」は、「神武創業之始」への回帰を宣言し、幕府とともに近世朝廷の摂関・武家伝奏らの職制と、公家社会の五摂家・門流諸家間の隷属関係などの秩序を、あまねく否定・解体するものであった。本稿では、朝幕関係の転換を早い時期に検出しようとする動向(藤田覚『近世天皇論』清文堂、2011年)に対し、近世の朝廷・幕府の不可分の関係と体制の強固さを主張する。 *第三部「家職の体制と近世朝廷解体への契機」では、かかる強固な体制を揺るがせ、変質させる要素について論じた18世紀後半以降の、諸公家・諸門跡らの家職組織経営や金融活動の近世後期社会への広がりを、朝廷の近世化の徹底とみるか(宮地正人「明治維新の論じ方」『駒沢大学史学論集』30、2000年)、幕末維新期に向けた朝廷権威の浮上と評価するか(高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』東京大学出版会、1989年))は、研究者間で見解が分かれている。だが、朝廷内部の閉塞状況下、公家・門跡が公家社会外での活動に乗り出し、利権を確保していったことは確実である(第三部第三章)。公家たちの近世社会における存在感が増すと、朝廷の頂点にある天皇への意識・関心も高揚したと考えることができる。公家社会内外での天皇観の転換については、第三部第四章で述べた。論点の第一は、朝儀再興・朝廷神事拡充と神仏隔離・排仏排穢措置の拡大である。元文3(1738)年、江戸幕府・将軍吉宗の後援下で大嘗祭が再興され、5年に新嘗祭が再興された。天明の大火と寛政度内裏再建を機に、寛政3(1791)年11月20日、内裏に神嘉殿代東西舎など仮屋を建て、数百年中絶していた新嘗祭行幸が光格天皇により再興された。前年には、建武3年(1336)廃絶後は、石灰壇代の流用で凌がれていた清涼殿石灰壇が復元され、天皇の「毎朝の御拝」の場も整備された(石野浩司『石灰壇 「毎朝御拝」の史的研究』皇学館大学出版部、2011年)。これ以前、延享元(1744)年には、甲子改元時の上七社・宇佐・香椎宮奉幣使発遣が、幕府の許容と経費負担を得て再興された(高埜、前掲書)。内裏には、黒戸と呼ばれる持仏堂があり、歴代天皇の位牌や念持仏が祀られていたが、文政元年(1818)、仁孝天皇の大嘗祭の前後、黒戸の器物は大聖寺へと搬出・預託された。朝廷神事のたびごとに、内裏や公家町、洛中で、また奉幣使発遣の沿道でも、仏事・仏具や寺の鐘・僧侶らの仏教的要素は隔離・遠慮させられた。近世の大嘗祭・新嘗祭再興と恒常化、場としての神嘉殿再興など、天皇親祭神事の充実と朝廷神事の拡充とは、天皇の宗教性に関わる重要な論点といえる。論点の第二は、廃仏論・即位灌頂否定論の台頭である。中世に成立した即位灌頂という仏教、密教の即位儀礼は、天皇と大日如来が一体化する秘儀として代々承継された。近世には摂家間で新天皇に対する印明(手に結ぶ秘印と唱える真言)伝授の権利をめぐる争論を繰り返しながら、関白・摂政の職分ではなく摂家二条家という家の家職として確立・定着した。享保20(1735)年の最後の争論で、関白近衛家久は「朝廷の重事」に臨む「執柄の臣」(摂関)の任とであると主張したが(「近衛文書」九)、「即位灌頂のこと重事に候」と認識した中御門上皇は、近世の実績を勘案して、左大臣二条吉忠に桜町天皇への伝授を命じた。上皇は、家久には女房奉書を自ら認めて慰撫し、印明伝授は二条家固有の家職として確立し、幕末まで存続した。けれども弘化4(1847)年、孝明天皇の即位灌頂時、参議野宮定祥や議奏東坊城聡長は、日記に即位灌頂を全面的に否定する廃仏観を記している。つづく慶応4年(1868)明治天皇のとき、即位灌頂は廃止された。天皇観の転換に関する論点の第三は、天皇の神格化の問題である。即位灌頂の意義低下と対照的に、江戸幕府の財政援助により近世に再興され、持続された大嘗祭の理解・意義付けが変化した。元文3(1738)年、再興時の関白一条兼香は、大嘗祭は天皇が神に供え物をする儀式である、という近世以前からの理解を踏襲したが(「兼香公記」元文2年12月15日条)、本居宣長以降の復古神道神学では、天皇が神格化する、という理解に転換を遂げた(宮地正人「天皇制イデオロギーにおける大嘗祭の機能」『歴史評論』492、1991年)。後期水戸学を代表する会沢正志斎の文政6(1825)年の著作「新論」は、幕末に広く受容されたが、大嘗祭を「神州」の「国体」を維持する礼制の中枢に位置づけている。 天皇観変化の要因として、天保11年(1840)の光格上皇没後、近世朝廷に院が不在で、仙洞御所に主がなく、朝廷内権力の分散もなく、天皇家の少子化による皇位継承への不安を増しつつ、天皇一人への求心性を高める状況が続いたことも想定し得る。本居国学、後期水戸学などの動向を解くためには、平田国学神道論の深化を含む思想史の問題を組み込む必要があるが、本稿ではなし得ていない。朝廷内外で価値観、天皇観の転換が進んだ一方で、朝廷・公家社会では、幕府に後援された関白・摂家が、絶大な権限、特権を維持し続けた。天皇の諮問に預かる勅問衆は、江戸前期には摂家の大臣に限定され、やがて摂家の当主であれば、大納言や中納言にまで構成を拡大した(田靡久美子「近世勅問衆と朝廷政務機構について」『古文書研究』56、2002年)。官位評議での諸公家の官位昇進人事も、天皇・院と摂家との間で調整・決定され続けた。朝廷の意思決定から疎外された非職の公家たちは、安政5(1858)年の条約調印勅許問題をめぐる群参、幕末の朝議参画機構の改編などを要求したが、摂関職と摂家・門流諸家間の隷属関係とは、慶応3(1867)年暮の王政復古で幕府とともに廃止されるまで、厳然と存続した。 *最後に総括的なまとめを記す。近世朝廷の展開を端的に表すと、豊臣政権・江戸幕府の後援による再建と成長、近世的組織機構編成の進展と集団内部の変容、内部矛盾・閉塞状況という過程を辿った。第一部「公儀権力成立と朝廷の近世化」で近世の権力の成立に寄与し、編成を受容して存続した天皇・公家身分集団の実態を、第二部「近世朝廷の成長と変容」ではそれ以後の近世中期(17世紀後半期)から19世紀までの時期を対象に、朝廷という集団の成長(構成員・知行の拡大)、構成員が増えた集団内での組織・機構整備と官職定員・利権配分をめぐる構造的な内部矛盾、内部規範の整備と家格階層秩序の桎梏・固定化を論じた。第三部「家職の体制と近世朝廷解体への契機」では、公家社会外への利権追求の動向、天皇の宗教性や天皇観の転換、近世京都の公家町の空間等について論じた。天皇家自身が作成・相伝した内部規範(「官位定条々」・「禁中例規御心得覚書」)に明らかなように、近世朝廷は、将軍権力と幕府財政とに依存し、財政面では江戸幕府に組み込まれた構造にあり(佐藤雄介『近世の朝廷財政と江戸幕府』東京大学出版会、2016年)、自立・単立し得なかった。幕末・維新期との接続と思想史の問題については展望を示すに留まったが、公家家職組織経営の広域展開、天皇や神道・仏教に関する公家社会内外の価値観の転換、摂家の特権的な地位に代表される江戸時代的な朝廷内部の強固な職制に対抗する公家衆の行動に、近世的朝廷体制解体の契機を見いだした。さらに今後の検証を期したい。本稿(書籍)は、申請者の学術雑誌寄稿・学術図書既発表論稿12篇に新稿2篇(第一部五章・第三部二章)と序章・終章を加えて整序・編成したものである。寄稿初出時の条件から、注記や史料引用方法などに違いがあるが、おおむねそのままの体裁で収めた。各稿とも誤字脱字を訂正した箇所がある。なお、学界の研究状況進捗や申請者の論稿へ寄せられた批判に対する回答など、論旨に関わる加筆は、各章の末尾に補注として配置し明記した。各稿の初出・成稿一覧は巻末に掲げたので、参照いただきたい。