著者
菊池 城司 Kikuchi Jyoji キクチ ジョウジ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.2, pp.1-22, 1997-03

戦前の中等教育機会に関する最も詳しい資料のひとつに『尋常小学校卒業者ノ動向二関スル調査』(文部省教育調査部、1938年3月)がある。それによると、わが国の中等教育機会の特徴は、「中等教育機会(中学校、高等女学校、実業学校)から、資産下(下位約1/4)の児童がほぼ完全に遮断されていた… 。資産中(上位10-76%)… については、[社会全体の分布と見合う程度に]中等教育機会が与えられていた」(菊池、1967)。この結論は、集計されたデータに基づいており、調査結果を詳細に検:討した結果ではない。そこで、この集計のもとになっている41集計単位(多くの場合、大都市・都市の場合には1市、町村の場合は3-4町村)にもどって、再分析を試みる。その結果、成績別・資産別に中等学校進学率を算出して、成績「丙丁」、資産「下」などの選抜度指数に注目すると、1.0をこえることはないがゼロでもない地域はいずれも、東京旧市区および新市区あるいは地方都市などに現われる。東京あるいは地方の都市(県庁所在地あるいはそれに準ずる)における小学校の中には、成績「丙丁」、資産「下」だからといって、中等教育機会から必ずしも遮断されていたとはいえない場合もある程度は存在したということである。ここに現われるイメージは、高進学率の世界と低進学率の世界の併存である。これらは、具体的には、東京を始めとする大都市と農村とにかなりの程度までは対応する。その中間段階には、後者から前者への移行過程にある地方都市が存在する。東京にも部分的には進学率の低い地区があり、逆に地方都市にも部分的には進学率の高い地区が存在していた。高進学率の世界においては、かつて成績「丙丁」、資産「下」の層が遮断されていた教育機会の断層はすでに崩れつつあった。それに対して、低進学率の世界では、教育機会の断層は依然としてほとんど不動のままであった。東京市を例外として除いて、全体を合計すると、大きなウェイトをもつ低進学率の世界の傾向がドミナントとなり、高進学率の世界とそこへ向かう変化の傾向が見えにくくなっていたと考えられる。