著者
竹田 駿介 タケダ シュンスケ Takeda Shunsuke
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.21, pp.43-54, 2016

映画『アナと雪の女王』"Frozen" の登場人物である、アナとエルサに見られる自己愛的な病理の発展過程を物語の展開に沿って考察した。Britton(2003)が児童期のコンテイメントの不在の体験様式の違いによる、成育史も踏まえた自己愛の類型を作成している。Britton(2003)の類型に沿って、アナはリビドー型自己愛、エルサは破壊的自己愛に相当する自己愛の様式を持っていることを明らかにした。加えて、アナとエルサが「真実の愛」とは何かを体験することで、それぞれの自己愛の様式が意識化されたことを示す。その「真実の愛」について、Bion(1963)のコンテイナー/コンテインドモデルの観点から、「真実の愛」を臨床実践に応用するためには心理療法家にどういった態度が必要かについて臨床心理学的に考察した。その結果、クライエントの求める自己愛的な関係性に注意しつつ、心理療法家が自身の原始的な超自我をワークスルーしてそれを示すことが、「真実の愛」へと発展し、"Frozen" な状況を改善する一助となる。
著者
津田 悦子 Tsuda Etsuko ツダ エツコ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.5, pp.29-44, 2000-03

西洋の近代的子ども観の基本枠組みを明るみに出したアリエス著『〈子供〉の誕生』の「子ども」はいかなる年齢集団を対象としているのか。これについてのこれまでの見解は一致せず矛盾の様相さえ見せている。「子ども」年齢の追究は、発達段階理論の発展に伴って未成年者全体と単純に想定するだけでは不都合な場合もあり、今後その必要性は増していくように思われる。そこで、アリエス論における「子ども」年齢を探る手段として、「新生児期」という最初で最短の時期を取り上げ、「新生児」への言及を拾い出し、考察を加えながらその位置づけを模索する。その一連の作業から見出されたのは、「子ども期」の歴史が「新生児」に関わる事象とそうでない事象に二分されていることであった。つまり、近代以前の「子ども」が軽率に扱われた証拠となる事象は「新生児期」と関わりを持ち、反対に、近代以降の「子ども」の記述内容においてはなぜか人生初期の「子ども」への焦点がぼやけるのである。一括りにして述べられる「子ども観」の中で、最も「大人」にとって異質な「子ども」である「新生児」は、過去の親子関係の劣悪さを強調する役割を担わされたのだろうか。これから必要とされる「子ども観」にとって、重要な基礎となる歴史把握に疑問を提起する。
著者
新谷 龍太朗 Shintani Ryutaro シンタニ リュウタロウ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.16, pp.147-161, 2011-03-31

本稿は、格差是正の制度として導入された総合選抜制度を学力・学習意欲格差の文脈から捉えなおし、特に進学アスピレーションと文化資本の関係からその影響をログリニア・モデルを用いて検証する。用いるのは中澤(2008)「進学アスピレーションに対するトラッキングと入試制度の影響」(東洋大学社会学部紀要 第46- 2 号)のデータであり、本稿は同データをSSJDAより使用の許可を受けた二次分析の位置づけとなる。中澤はログリニアモデルを用いた分析を行い、総合選抜制度のもとでは進学アスピレーションと中3 時成績の関連が比較的弱まることを示し、総合選抜制度には生徒のやる気を維持し中3 時の成績を越える進学成果を生む可能性があることを指摘した。本稿では、この結果を家庭階層の観点から再考し、中3 時成績に代えて文化資本を変数として同様のログリニアモデルによる分析を行い、文化資本と進学アスピレーションの関連が中澤の分析同様に弱まるのかを検証した。その結果、文化資本として用いた指標に限界はあるが、総合選抜制度のもとでは進学アスピレーションと文化資本の関連が強まり、むしろ文化資本による進学意欲格差が生まれる可能性を指摘した。また、特に文化資本の中間層において進学意欲が低下する傾向にあることを示した。
著者
竹田 駿介 Takeda Shunsuke タケダ シュンスケ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.55-66, 2018-03-31

This paper mainly surveys the differentiation between oneself and others and based on a psychoanalytic view of relevant cases and observations of infants. It is shown that in normal development, the Me and the Not-Me is differentiated within consciousness. This study argues that people who cannot differentiate between themselves and others can be divided into two pathological types. The first type comprises people who deny the inner truth that others do not think the same way they do, and that they must endure their pain by themselves. The second type comprises people who are in the first place unable to notice or understand that other people think differently from them. To distinguish between these pathological types, the presence or absence of self-direction can be used as standard evaluation criterion. Moreover, being able to differentiate whether an individual has had a normal or pathological development is important because it influences the relationship between therapists and clients during sessions. As a guidepost to distinguish which type of development occurred in an individual, the relationship between the therapists and clients is considered complete and fulfilled when no new revelations arise in the pathological states. In short, to encourage normal development as part of the treatment, it is important that the therapy relationship involves openness especialy from the client.本研究では,症例や乳幼児の観察から導き出された精神分析的な理論をもとに,自他が分化し,発達していく様子について概観した。その中で,正常な発達では,「私」と「私でないもの」が曖昧な状態から,分化していくことが示された。そして,病理的な自他未分化の場合,他人は,自分と同じように考えることはないし,自分の痛みは結局自分で抱えるしかないという内的真実を否認している場合と,そもそも気づくことが出来ない場合に分けることが出来ると論じた。その区別として主体性の有無が水準を判断する材料になることを示した。正常な発達と病理的な発達のどちらが面接内のセラピスト―クライエント関係でおきているかを区別することが重要であると述べた。区別するための視点として,二者関係がそこで完結して満たされた場合は,新たな視点が生まれることはない病理的な状態であると示した。そして,正常な発達のためには,クライエントとセラピストの関係性が,満たされない状態について開かれているかが重要であると示した。
著者
佐々木 暢子 京極 重智 ササキ ミチコ キョウゴク シゲトモ Sasaki Michiko Kyogoku Shigetomo
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
no.19, pp.17-30, 2014

本研究の目的は、大阪大学人間科学研究科・教育人間学研究分野を中心に教育と福祉の理論家と実践家によって行ってきた共同研究、「教育と福祉のドラマトゥルギー」のこれまでの研究成果と課題を考察することによって、今後の共同研究のあり方を展望することにある。その際、本共同研究の共通の観点として用いた「舞台」概念に着目し、その概念が持つ意味の射程を明らかにすることを目指した。そのためにまず、本共同研究の理論的基盤であるゴッフマン理論から見た「集まり」の輪郭を明らかにする。次いで、本共同研究の成果の一つを事例として、これまでの共同研究において曖昧なままであった「舞台」概念を四つの層に分類・整理し、「舞台」概念の再定義を行う。そこから、ゴッフマンが「集まり」とその外部の関係を考察の対象とはしていなかったのに対し、本共同研究では「舞台」間の関係を動的に捉えるとともに、物理的・可視的空間だけでなく、仮想的空間をも射程に収めるという点に特質があることを明らかにする。以上の考察から、今後の我々の共同研究の中で、様々な位相に属する「舞台」同士がどのように影響を与え合い、それらがどのように変容していくのかを具体的な事例の中から明らかにしていく必要があることを示す。This article discusses the objectives and results of our joint research, entitled "The Dramaturgy of Education and Welfare" focusing on "the stage." This constitutes a key concept of this study because of its originality and employability as an analytical concept. However, because the stage has not been fully considered in our studies, its use remains ambiguous. Therefore, we fi rst clarify the implications of "gathering" in Erving Goff man's "Dramaturgy", which forms our theoretical base. Originally, Goff man's primary concern was to reveal orders of gathering, so his "Dramaturgy" did not consider the relational aspect of gathering that is the relationship between a stage and the outside world. However, our study regards the gathering concept as possessing a dynamic relation with the outside world. Second, we extend and classify the stage concept into four categories ranging in density, from abstract to concrete, by using one case study. This categorization is termed "Multilayered Structure of Stage", a concept that spans not only the physical and visible spaces but also the virtual and imaginary. Finally, we indicate that the problem of this joint research is to clarify on the basis of particular cases how stages in their diff erent phases interact and transform.
著者
比嘉 康則 榎井 縁 山本 晃輔 ヒガ ヨシノリ エノイ ユカリ ヤマモト コウスケ Higa Yasunori Enoi Yukari Yamamoto Kousuke
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
雑誌
大阪大学教育学年報 (ISSN:13419595)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.109-124, 2013-03-31

本稿では,日教組教研全国集会で在日コリアン教育がどのように論じられてきたのかについて,1950・60年代を中心に検討した.特に焦点をあてたのは,「民族」についての言説である.『日本の教育』と県レポートの分析からは,1950・60年代が特殊な時期であることがうかがえた.当時,在日コリアン教育をテーマに含む分科会では,諸テーマの脱特殊化と分科会参加者の脱ローカル化という固有の力学のもとで,「日本民族の独立」というコンテクストが共有されていた.このコンテクストは両義的な帰結を引き起こしており,一方でそれは,在日コリアン教育を論じる動機づけと正統性を教師に提供し,提出レポート数の増加とレポート提出県の全国化をもたらしていた.しかし他方で,「日本民族」による「朝鮮民族教育」の不可能性という,日本人教師の立場性をめぐるジレンマが,在日コリアン教育をめぐる議論には横たわることになっていた.今後,県レポートと『日本の教育』の言説の相違や,1970年代以降の県レポートの分析などを行なうにあたっては,分科会内部の固有の力学,つまりナショナリズムのダイナミクスに留意する必要がある.