- 著者
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澤田 麻美
Mami SAWADA
- 出版者
- 筑波大学大学院人間総合科学研究科
- 雑誌
- 芸術学研究 = Tsukuba studies in art and design
- 巻号頁・発行日
- no.24, pp.21-30, 2019-12
吉岡堅二(1906-1990)は、新美術人協会や山樹社など幾つもの在野運動を展開し、1948 年には現在の創画会の前身である創造美術結成に携わるなど、昭和期における日本画の革新運動を牽引した画家である。しかし、吉岡に関する先行研究は、画集や展覧会図録等に掲載されたわずかな作家論にとどまっている。本稿は、先行研究では詳細に触れられていない制作過程の一端を提示する事を目的とする。特に、筆者が吉岡の制作で重要な役割を果たしていると推測した、下図における画面構成の検討と本画の関係について考察を試みる。はじめに、吉岡に関する研究の現状を明示する。次に、本稿の着眼点である下図について述べるために、まず日本画における下図の役割を概観する。そして、吉岡の制作に関わる資料について整理した上で、制作過程を分析し、吉岡における下図の重要性を示す。本稿を進めるにあたり、旧吉岡家住宅の資料の整理を行っている、東大和市立郷土博物館の協力を得て調査をした。吉岡の所有していた文献資料から、1930 年頃には西洋の美術思潮に関心を寄せ、徐々に形態の表現に注目し始める様子が見受けられた。そして、それらを咀嚼した下図作りは、1950 年では、画家の頭の中に漠然と存在しつつも、捉え処のないイメージから制作が出発したといえる。それが、基準線や幾何形体を用いた下図作りを契機に、イメージの具現化の課題が解決されていった。本画においても、下図で検討された幾何形体が保持されていた。吉岡が、当時の美術思潮に注目しながら、制作の中で画面構成を重視していたことが写生から下図、本画という制作過程に一貫して見受けられた。先行研究で吉岡の作風が「合理的」、「造形的」と表されることに対し、さらに吉岡の表現について考察を深めるために、本稿で下図の役割と変遷から考察し、その中でも「下図」に新たな糸口を見出したことは成果の一つである。著作権保護のため、すべての掲載図版に墨消し処理を施しています。